【第136回】日本料理の美学 その2 -北大路魯山人

昭和29年(1954年)4月、北大路魯山人はロックフェラーの招聘に応じて米国と欧州に旅立った。約1ヵ月の米国訪問を経て翌5月にロンドンに入り、中旬にフランスへ渡った。
その時にパリ在住であった作家の大岡昇平や画家の藤田嗣治、同じく画家の萩須高徳の案内で、1582年創業のミシュラン2つ星(当時にすると3つ星だったかもしれないが)のトゥールダルジャンに行った時のエピソードが面白い。
(以下引用)


「パリのノートルダムの後の方の河岸にトゥール・ダルヂャンといふ有名のレストランがある。ルイ十何世からの店で、出される鴨にはその頃からの通し番号がついてゐる。丸ごと焼いた奴を一旦お客に見せてから、料理場へ下げて、改めて味をつけて出して来るといふ手のこんだことをする。
それに味をつけることは、余計な手間だ。鴨の持味を殺すやうなものだ。そのまゝ横腹を切つて来いといつたのが魯山人である」(「巴里の酢豆腐」『あまカラ』第四十八号。昭和三十年四月)
読んでいてもハラハラするが、この展開に大岡や萩須は気絶しそうになったらしい。大岡の筆は続く。「一流の料理屋ともなれば、店の料理で食べさせるのが自慢でもあれば、誇りでもある。フランス料理は殊に味の料理である。それを味をつけないで持つて来いといつたのだから、支配人は驚いた。案内してくれた畫家の萩須高徳さんが、(機転を利かして)東京の一流料理店主だと説明して、やつといふことを聞いて貰つた。魯山人はやおら風呂敷包をひろげて出したのは、醤油とわさびだ。醤油は関西の何とかいふうるさい醤油である。わさびは粉わさびだが、この頃は粉の方がいゝといふ説明である。そいつをガラスの底でこねてゐる白髪の老人を、満堂の紳士淑女は珍らしさうに眺めてる。コックもいつの間にか出て来て、そばにポカンと立つてゐる。ヂイさんの得意や思ふべし」
ちなみにカードーゾは、誰からの又聞きか知らないが、このくだりを「(魯山人は)例によって、イライラしながら数分間見た後、『鴨料理はそんなやり方じゃだめだ。さぁ、俺が見せてやる』
(中略)
「話の種にトゥール・ダルヂャンの味をみておきたいところである。切らしたのは(鴨の)横腹だけだ、残りは店の独特の味つけで出してくれとお世辞も使つてある。これが向うには困ることだつたらしい。鴨を煮つめたソースが得意なのである。ジャガイモの薄く切つたのをあげて、どう細工をするんだか、プーッとふくれた奴に、そのソースをかけて出して来た。もつと身があるはずだぞ、とはまさかいへない。黙つてると、次に脚が出て来た。こつちは萩須さんの奥さんを入れて四人の人数だつたが、それに一本づつ。フランスの鴨には足が四本あると見えると大笑ひになつた。つまりルイ王朝以来の何万何千何百羽目の鴨はいはゞ『見せ鴨』で、料理はちやんと裏に用意されてゐたわけだつた。それを目の前で切らされては、さぞお困りだつたろうと、我々はもう一度笑つた」
以上、山田和著「知られざる魯山人」/文藝春秋社より一部引用



実はこのエピソードは魯山人をモデルにした漫画「美味しんぼ」のオープニングに使われている。海原雄山である。

最近、筆者は魯山人に関する本を2冊読んだ。
1つは、前述で引用した、山田和氏の労作「知られざる魯山人」で、もう1つは、平野雅章氏編集のアンソロジーである「魯山人の美食手帖」である。
なぜ筆者が本コラム「日本料理の美学 その2」を書くにあたって魯山人を取り上げるかと言えば、安土桃山時代からの日本料理の改革者の2番目の登場人物だからである。

一番目は言わずと知れた、千利休である。
千利休についてはお茶もろくろく学んだことのない筆者の教養では恐れ多くてとても語れないが、一汁三菜の様式や食器や道具に竹を用いた点、料理と季節感の連動、利休箸や楽、萩、唐津、織部、志野などの器の導入にいたる今日の日本料理の基礎を完成した泰斗であるが、その利休の時代から400年下って今日の日本料理の様式を改革したのが北大路魯山人であると筆者は考えている。
その魯山人の後に3番目の改革者が登場するが、その名前はあまりにも意外(?)なので本コラムの最後でその人物は紹介することとする。
日本料理はこの3人のおかげで今日のスタイルを確立することができたのではないかと筆者は考えている。

余談ながら、利休は日本の食器に竹を導入した革命者でもあった。
有名な茶杓の「泪」「面影」のようなものから、竹の花入「尺八」「よなが」「園城寺」のようなものまで『竹』という被差別民特有の素材を大名道具に仕立てるような堺商人独特の反骨精神(町人気質か?)が面白いと筆者は思う。
また、秀吉に切腹させられる遠因にもなっているが、食器、茶器に黒を積極的に導入した。今日の黒漆の椀のように、もともとは下地として使われていたものを朱を塗ることなく黒のまま採用したり、秀吉が嫌う黒の地味な楽椀で茶を出して不興を買ったりすることもあったが、黒の美学を発見した人でもある。

閑話休題。

さて、北大路魯山人という人は、筆者の第83回のコラム「高等遊民」でも書いたが、何をした人なのかを説明するのがとても難しい人物の一人である。
Wikipediaの説明を引用してみよう。
(以下引用)


北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん/きたおおじ ろざんじん、男性、1883年(明治16年)3月23日 – 1959年(昭和34年)12月21日)は日本の芸術家。
本名は北大路 房次郎(-ふさじろう)。京都府京都市上賀茂(現・京都市北区)出身。
篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家など様々な顔を持っていた。
以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2010年1月7日より一部引用



もともと魯山人は、のちに星ヶ岡茶寮を共同経営する中村竹四郎と日本橋に大雅堂という古美術店を経営していた。古美術店であるから書画骨董の類を商っていたわけであるが、大正9年の株式市場の大暴落(今で言うところのリーマンショックですな)で商売が左前になった時にマーケティングの一環として始めたのが料理屋であった。売れない古陶の名品に料理を盛って常連客に振舞えばその器を買ってもらえるかもしれないという発想からであった。
最初は一食25銭(今で言うと1500円位)で始めたこのサービスが大当たりしたのである。美術館に展示されるような瑠璃南京、祥瑞(ションズイと読みます)、乾山、光悦や桃山古陶などに料理を盛り付けてサービスする骨董屋は現在でも存在しないのでこの企画は当たりに当たった。
そしてその企画は『美食倶楽部』という会員制のサロンに発展し、会員には10食分で25円(今で言うと約12,3万円位)の回数食券を買ってもらい、骨董屋の2階で旬の食材を国宝級の器に盛って供し大繁盛したのである。その頃の会員数は政財界の要人ばかりで200余名となった。
この大雅堂時代の美食倶楽部は関東大震災で店もろとも焼失し、現在の芝公園内に花の茶屋として復興し、それが発展して、赤坂キャピトル東急の跡地の日枝神社の下にあった華族会館に開いたお店が有名な『星ヶ岡茶寮』である。大正14年、魯山人42歳の時のことである。
星ヶ岡茶寮は定員80名の料亭で、板場20人、仲居約40人、帳場その他、バックオフィスのスタッフ10人の計70名余りの大料亭で、会員制で運営されていた。
最盛期には2千数百名にまで会員は達し、その宣伝雑誌である「星岡」は発行部数5000部を超える文化雑誌になっていたのである。

魯山人はこの料亭でいくつかの日本料理に対する革命を行っている。それらが今日の日本料理の原型となっているのである。
まず第一は、膳に一汁三菜を一度に盛り付ける茶懐石の出し方から、一品ずつ料理を出す今日の出し方に変わったことである。熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちにという瞬間をとらえている。
(以下引用)


「偉大な演出家」
二十世紀の日本料理を語るに、星岡茶寮は欠くべからざる存在である。茶寮の開寮は日本料理のあり方をすっかり変えてしまったからだ。そのことについて、魯山人とつき合った名古屋の料亭「八勝館」支配人の松田伴吉は『太陽』の「特集 北大路魯山人」(三百三十三号。平凡社。前掲誌)の座談会で、つぎのように整理して述べている。
「今では当たり前になってしまった一品ずつ料理を出すという方法は、昔はなかったんです。昔は本膳ついて、その横に二の膳、さらに吸い物膳と、お膳が三つぐらいあって、それぞれの膳に三、四の料理が乗っていて、始めからドーンと全部出しちゃってた。そしてしばらくすると吸い物を吸い物膳に運んだもんです。いわゆる江戸料理で、いかにも野暮といえば野暮ですね。今でも、宮廷とか神社ではそうやっている。それを魯山人は変えたんです。
魯山人は土地の人なら誰でも知っているような食べ方をやったんです。明石の人は鯛をこうやって食べるとか、牡蠣でも蛤でも地元の人は捕って来てサッと食うとか、(中略)それを、自分が東京で店やる時に活かしたんですよ。(中略)今まで本膳ばかりで食っておった人には、全く不思議な感じだもんね。(中略)
日本料理ということで言えば、相当偉大な演出家だった。第一に、座に芸者を入れなかった。第二に、仲居さんがお酌しない。この二つだけでも大変なことだった。しかも、そのように実行して評判がよかったということは、何かを意味していますね。私どもの料理の出し方も結局は魯山人の真似です」
以上、山田和著「知られざる魯山人」/文藝春秋社より一部引用



第二は、素材の新鮮さに徹底的にこだわったということである。魯山人は日本料理の美の本質が素材の素晴らしさにあると信じていた。そのためには当時のサプライ・チェーンを無視しても食材の調達にこだわったのである。
(以下引用)


「抜き立て」
(中略)
「ここに一本の大根があつたとする。若しその大根が今畑から抜いてきたといふ新鮮なものであるならば、之を下ろしにして食はうと、煮て食はうとうまいに違ひない。だが若しこの大根が古いものであつたならば、それは如何なる名料理人が心を砕いて料理するとしても、大根の美味を完全な持味に味ははせることは出来ない。天のなせる大根の美味は、新鮮な大根以外に之を求めることが出来ないからである。(中略)同じ大根でもその種類により、又、その生ひ立つた土地の状態、即ち風土の如何によつて、美味なるもあり、美味ならざるもある。そこでよい料理をしようとすれば、先づ大根の持つ味を活すために、新鮮なる大根を手に入れることが必要であり、第二にはよい種類の大根を選ぶといふことが料理人の心得として必要である」
(中略)
「せめてもの冥利」
そのような魯山人が京都の奥地を流れる和知川から活きた鮎を届けさせた話は有名である。鮎は棲息域によって大いに味と香りを異にする。鮎が棲息する水質と水流、餌とする珪藻(植物性プランクトンの一種)の質によって決まるからである。彼は方々の鮎を食した末、丹波の北十数キロの山峡を流れる京都府船井郡の和知川上流、大野の鮎にたどり着く。地図で確かめてもらえばわかるが、これは現在の大野ダムのさらに内奥である。京都からでさえ交通の不便は容易に察せられるが、彼は初夏になるとそこから毎日のように一回千匹弱の鮎を生きたまま搬送させた。搬送のしだいは次のようであった。
「夜中の十二時、魚梅さんの輸送用トラツクが、之等の生洲を一廻りして(釣り貯めた)鮎を積み込んで、そのまま京都へ降る。かうかくと至極簡単だが、四斗樽程の槽に入れて積み込んだ鮎は、同乗の扱人が、絶えず柄杓を以て、水を汲んでは、瀧のやうに上から落して、樽の水に水勢をあたへ、且つ新鮮な清水を注がねばならないのであつて、之を一寸でも怠ると、鮎は生きては届かない。
かくして京都へ降つた鮎は、ここで半日程休息させられて、夜の七時五十分に京都駅をたつ急行の郵便(列)車に乗せられる。かくて百四十里の道を東京へ運ばれるのだが、この間、自動車でやると同じく柄杓の瀧を掛けねばならぬ。その苦心たるや、實際涙ぐましい努力と言はねばならぬ。誤つて五分間も居眠りしたら、鮎は東京へ生きては届かないのである。清水の用意は勿論初めからして行くが、それでも途中、名古屋と沼津で水の補給をする。水温の調節は、氷を用ゆるとのこと。かういふ努力を拂へばこそ、捕つて二日目には、東京で和知川の鮎が、京都や大阪と同じ様に食べられるのである。言はずもがなのことではあるが、此の鮎を食ふ時にはかうした取扱人の血の出るような苦心を一寸思ひ出してやるのが、食道楽家のせめてもの冥利といふべきではなからうか」(「食道楽随伴記丹波和知川の鮎」『星岡』六十九号。昭和十一年七月。)
以上、山田和著「知られざる魯山人」/文藝春秋社より一部引用



魯山人は鮎の味にことさらうるさい人だったようで、有名な美食家で「食道楽」の著書である村井弦斎に対して痛烈な批判をしている。
(以下引用)


例えば、あゆについていうなら、「食道楽」の著者村井弦斎などのあゆ話にはこんなミスがある。「東京人はきれい好きで贅沢だから、好んであゆのはらわたを除き去ったものを食う」ここが問題なのだ。東京人がきれい好きだからわたを抜いて食うというのは大間違いであり、東京人がきれい好きというのは、この場合、余計なことだ。
要するに、村井弦斎が東京人かどうか知らぬが、彼のあゆ知らずを物語っている。はらわたを除き去ったあゆなどは、ただのあゆの名を冠しているだけのことで、肝心の香気や味を根本的に欠くので、もはや美味魚としてのあゆの名声に価しないものである。
これはたまたま当時、急便運送不可能の都合上、東京にはらわたがついたままのあゆがはいり得なかったまでのことで、弦斎の味覚の幼稚さを暴露したものである。今日食道楽といわれているひとの中にも、ずいぶんこの種のひとがいる。彼らの著書をみれば一目瞭然である。一般的にいえば、彼らの著書の内容は、辞書の受け売りや他人の書物のつぎはぎで、著者自身の舌から生み出された文章はまったく稀である。
以上、北大路魯山人著 平野雅章編集「魯山人の美食手帖」/グルメ文庫より一部引用



魯山人の行った第三の改革に、器があると筆者は考えている。
今日の日本料理の器の主流は利休の愛でた楽もあるが、何といっても織部や志野に代表される桃山時代の陶器ではないだろうか(九谷や染付ももちろんありますが)。
魯山人は織部、志野、黄瀬戸、紅志野、鼠志野などの桃山陶を400年ぶりに再現して、彼の窯である星岡窯で何万点もの作品を残したのである。昭和54年に荒川豊蔵(のちの人間国宝の陶芸家)と共に美濃で桃山時代の古窯跡を発掘して、織部や志野が連綿と製作された陶器ではなく、400年前の桃山時代に利休や織部の指導によって突然姿を現し、忽然として歴史から消えた陶器であることを発見したのである。現在の日本料理の器の主流を占める織部や志野などの桃山陶器はこうして魯山人によって発掘され、再現され伝承されて今日にいたっているのである(彼は加賀の須田精華の窯で作陶をはじめ、のちに鎌倉に星岡窯を開窯してこれら桃山陶の完全復元に挑みました。それらはそのまま星岡茶寮の器として使用されました。ちなみに何万枚の規模です)。
現在、日本料理で織部や志野が多用されている背景にはこの魯山人の作陶があったのである。

魯山人による以上のような改革によって今日の日本料理のスタイルは確立されたのである。
彼が日本料理の第二の改革者であると言われる所以である。

ちなみに、この説は筆者が勝手に考えていることなので、学問的には他の意見もあるかもしれない。例えば、江戸時代に有名であった八百善なども日本料理にある種の足跡を残したが、魯山人ほどの影響はなかったと考えている(「料理通」という有名な本がありますが)。
魯山人がなぜそのような大きな影響力を誇示できたのかと言うと、戦前の日本の上流階級及び文化人を2000人以上も会員にしていたので、その遡及力は全国レベルのものなのであった。
また、独自の毒舌で当時の芸術家や文化人や陶芸家を罵倒し続けた機関誌「星岡」の読者も5000人以上に及び、政界から文壇、芸術家まで日本の知識層すべてに遡及する力があったのである。その意味では日本のエスコフィエを呼べる存在であることは確かであろう。

さて時は変わって現代、魯山人が没して約50年経つが、その間に日本料理の世界を一変させた人物がもう一人いる。
その人物は日本料理に材料改革、素材革命をもたらした。例えば、北海道で朝捕れた魚をその日の夕方には東京の料亭に配達するというとんでもないサプライ・チェーンを発明したのだ。このことによって日本料理の素材は魯山人の頃とは比較にならないほど豊になり、また品質も向上し、素材至上主義は完成の域に達したのであった。
その日本料理の第三の革命を成し遂げた人物とは一体誰か?

宅急便を発明した、小倉昌男である。

彼の構築したサプライ・チェーンが日本の料理シーンを一変させたのである。
今では、築地以外から産地直送でその日に捕れた魚がどんどん東京に入ってきている。東京は世界に冠たる食の都となったのであった。

最後に余談であるが、絶頂期にあった星ヶ岡茶寮から、魯山人の盟友の中村竹四郎をそそのかして魯山人を追放し、星ヶ岡を崩壊させた人物D(「知られざる魯山人」中の記述)というのは、秦秀雄のことである。この人物は井伏鱒二の「珍品堂主人」のモデルともなった骨董商で、かの白洲正子の友人でもあった。筆者は本コラムの下調べの過程で白洲正子の文章をいくつか読んだが、これが胡散くさい。スノッビーなのだ。知識はあるが洞察も教養もない。青山二郎とこの周辺の人々は本当に胡散くさいので、この胡散くささの本質をそのうち調べてみようかと思う。筆者には骨董の世界にカジノの裏舞台のような仕掛けがあるように思えてならない。目利きは一体どのような能力か?利休の美学とも魯山人の芸術性とも異なる集団が何を企んでいたのだろうか?

ミステリーは続く。