【第103回】バーの愉しみ その2 -あの酒は今(もう一度飲みたい幻の酒シリーズ)

人生四十数年生きていると(正確に言うならば、人生三十年近く酔っ払いをやっていると)、記憶の中のグラスになみなみと注いだ酒が数千種類はある。
終売、生産中止、輸入禁止、食品衛生法違反、等々、バーから消滅した理由はいろいろであるが、その銘酒の記憶は今も心の中にしっかりと残っている。
多分これらの記憶は歴史の中で語られることが全くないと思われるので、20世紀後半から21世紀初頭にかけて東京の酔っ払いが記憶している幻の酒を紹介してみたいと思う。
バーの愉しみ、アーカイブ編というわけである。
ちなみに、全ての知識は筆者の飲んだくれた残滓であるので、間違った理解をしている点もあると思われる。それぞれの酒の消息を知っている方がおられたらご教示願いたいと思っている次第である。

■その1.パッサーズラム(英国海軍の事務長のラム)
ほんのつい1970年代まで、英国海軍の軍艦の中では乗組員にラムを配給する習慣が残っていた。これは大航海時代からの風習で、水夫達はオランダ船やスペイン船と戦って勝利すると、褒美に事務長から多めに配給されるラムに欣喜雀躍したのである。
この事務長のことを英語では、Purser(飛行機のパーサーと同じです)と呼んだが、それがコクニー訛りで縮まって発音されて、“Pusser’s Rum”(パッサ-ズラム)と呼ばれたのである。ギアナ、トリニダート、バルバドス等で醸造された原酒をヴァージンアイランドでブレンドし熟成させたラムである。
1980年代になってこのラムを軍艦で配給する習慣が廃止になって、パッサ-ズは市場に出回るようになったのである。その頃のパッサ-ズにはブルーラベル (48度、95.5Proot)と、レッドラベル(40度、80Proot)の2種類があって、いずれもキャップに錨のマークがあり、ラベルには、 British NAVYと書いてあって、レッドエンサインが入っている。レッドエンサイン(Red Ensign)とは、英国商船隊旗のことで、現在では英国籍の民間船が掲げる旗であるが、かつては英国海軍主力艦隊の艦隊旗であった。当時は英国海軍に乗り組まないと飲めない幻のラムであったので、マニア垂涎の酒であった。当時はラムといえば、バカルディやコルバのようなカクテルの材料としてしか使わないようなものしかなかったので、ストレートやロックで生(き)で飲むラムはとても珍しかったのである。 今ではビンテージラムはパンペーロ、バルバンクール、オールドモンク、セントマルチニック等々、非常に素晴らしい出来で、そのままの風味を楽しむものが増えたが、その当時はラムがこんなに美味しいとは思わなかったので驚きであった(現在では、パッサーズラムは米国のバーボンメーカーが買い取って、まったく違うラベルと酒になっています)。

■その2.じいさんグラッパ(ロマーノレヴィ)
もしあなたがイタリア料理店に行って、食後酒にグラッパをリクエストしてソムリエが嬉々として持ってきた何本かのうちの1本に幼稚園児がお絵かきの時間に書いたような下手くそな絵のラベルがあったら、それが通称“じいさんグラッパ”という幻のグラッパである。じいさんの名前は、ロマーノレヴィ。1928年生まれの今年78歳のまさにじいさんである。じいさんグラッパはこのじいさんが直火式の蒸留器で作ったハンドメイドグラッパである。ラベルも一枚一枚手書きで、幼稚園児のような絵も1つとして同じものはない。このグラッパは正式に輸入されていないので、もしお目にかかる機会があったとすれば、誰かがじいさ んのところに直接買い付けに行って持ち帰ったものである。
ちなみに、グラッパというのはイタリアの滓取りブランデーのことで、ワインをしぼったあとのしぼりかすを集めて発酵させ、それを蒸留したブランデーである。
ロマーノレヴィのもとには、イタリア各地の有名ワイナリから彼の作るグラッパを依頼するために最上のぶどうのしぼりかすが集まるのである。グラッパは本体のワインよりも原料が少ないので、滓取りといいながら実は本体のワインより高価なのである。レストランでグラッパグラスに半分注いだだけで1杯2,000円 近くするような高級品でもある。じいさんは多分長生きしても90歳くらいなので、どう考えても後何年かでこのグラッパは地上から消えるのである。

■その3.ヴェスパ・マティーニ(カジノロワイヤル版ウォッカ・マティーニ)
先頃公開された、ダニエルクレイグ主演の007の新シリーズ、カジノロワイヤルに新しいレシピのウォッカ・マティーニが登場した。
ゴードンジン3、ウォッカ1、キナリレ(映画での字幕ではキナレイと翻訳していました)半分、それをシェイクしてレモンピールを添えてくれ。
A dry Martini, Bond said “One, In a deep champagne goblet… Three measures of Gordon’s, one of Vodka, half a measure of Kina Lillet. Shake it well until it’s very cold, then add a large thin slice of lemon peel, got it?”
カジノロワイヤル版のウォッカ・マティーニはヴェスパ・マティーニと呼ばれるマティーニの一変種である。これは実は、映画が公開される以前から日本では幻 のマティーニであった。なぜなら重要なベルモットである、キナリレが日本の薬事法で輸入禁止になっており、目下のところ入手不可能だからである。それゆえ、ヴェスパ・マティーニは都内のどんな有名なバーに行っても飲むことはできない。筆者も皆さんも永遠にジェームズボンドを気取ることはできないのであ る。
キナリレ(Kina Lillet)というのはベルモットの一種でフランスのリレ社が細々と製造していたもので、アペリティフとして飲まれていた酒である。キナというのはキ ニーネのことで、キナの皮から抽出したマラリアの特効薬として有名なアルカロイドである。このキニーネが酒の成分として日本では禁止されており、従って、 日本の成年男子は誰一人として、バーでジェームズボンドになることはできない。カジノロワイヤルが執筆された頃のキナリレは現在のリレブラン (Lillet Blanc)のことで、キナリレはもともと白ワインベースのリキュールであった。1960年代に赤ワインベースのLillet Rougeが発売されたので現在ではこちらの方がキナリレと呼ばれているらしい。

■その4.ロンサカパ -レモンハート風に
“ロンサカパがビキニになったね”筆者がバーテンダーに尋ねた。
“そうなんですよ”
“味は同じ?”
“飲めば判りますよ”
バーテンダーはバカラの見事なカットのロックグラスに丸い氷をカランと入れて、そのビキニ姿のロンサカパをなみなみと注いだ。
“どうぞ”
いつもなら黒蜜の甘露が舌に広がるはずだった。カリブ海の椰子の木陰は消えていた。海岸でカニをとりながら遊んでいた少年は、同じ肌の色のまま都会に出て大学を出てきっちりとしたビジネスマンになっていた。
“やっぱり”
筆者は落胆し、嘆息した。かつて、瓶の口の蝋の封印まで手作りであった名バーボンのオールドセントニックも同じ運命を辿ったことを思い出した。
ロンサカパはグアテマラのラムで、ボトル全体を美しい椰子の織物で編み上げてあった名品中の名品である。これはカクテルの材料に供されるものではなく、ブ ランデーのように生(き)で風味を楽しむラムである。このボトルは2005年3月に終売となって現在ではもう入手不可能となっている。最後に仕入れたボトルがたまにバーの棚に並んでいるだけである。もしどこかのバーでこれを見かけたら、ぜひロックかストレートで飲むことをオススメしたい。それが最後の一杯 となるかもしれないからだ(ちなみに、現在のボトルはその椰子の織物を腹巻くらいのサイズにして腰に巻いています)。

■その5.ボートエレン -幻のアイラモルト
かつてアイラ島には8つの蒸留所があった。ラフロイグ、アードベック、カリラ、ボウモア、ラガバーリン、ポートエレン、ブナハーブン、ブルイックラディ。
ボートエレンは1984年に廃業して工場も解体し、今は完全にこの世から消えたアイラモルトである。
その中の生き残りが(ボトラーズを入れて)まだ都内のマニアなバーには存在するらしい。筆者はI社のバーマニアであるM氏に紹介されて神楽坂のバーで久しぶりに飲んだ(もっともかなり泥酔していたので、臭覚・味覚は正常だったのですが記憶が飛んでしまってどんな風味であったかは全くコメントできない結果となっております。残念無念)。

この他にも“昔の”と名のつく銘酒はたくさんある。筆者の記憶をざっとひもとくと、オールドセントニック、ジャックダニエル・シングルバレル、フィッツジュラルド12年、ライフロイグ5年、スロージン、ピンチ、サシカイヤグラッパ、アニアグラッパ・・・・

日本人(特に東京のビジネスマン)は世界で一番複雑な食生活を送っている人種のうちの1つである。その複雑多岐にわたるメニューに呼応する酒もまた世界中 から集められた銘酒、珍酒の山で、レアものから高級品まで、東京ではまず入手できないものはないと言ってよいだろう。 先日、ミシュランの調査を受けた何件かの料理屋やレストランで、その5人の調査員のうち3人がフランス人であったと聞いているが、見知らぬ外国からいきな り来て、寿司、てんぷら、とんかつ、しゃぶしゃぶ、すき焼き、懐石、フグ、すっぽん、京料理、等々の比較が自由自在にできるとはとても考えられないし、日 本酒と料理のマリアージュだけでも判定することは不可能であると思う。第一、日本酒は日本人が飲んでもよく判らない複雑怪奇な酒であります(申し訳ありませんが外国からいきなり来て日本の優れた鮮度の食材を見抜くだけでも能力的に不可能と思います。30歳そこそこのキャリアでは料理人でもやっていない限り無理とおもいます)。

もし、世界のバーを対象ににミシュランガイドを発行するならば、これは我田引水ではなく、世界のバーベスト100にはすべて日本のバーが入ると思われる。 日本のバーを入れたらサンフランシスコのレッドウッドバーも、プラザのオークバーも、シンガポールのロングバーもベスト100には入らない。そのくらいレ ベルが違う。そのくらい日本のバーの酒の種類とバーテンダーの技術は、レベルが高い。誰もこのことを言っていないが、日本のバーとバーテンダーは世界の トップレベルの水準にあるといってよいだろう(これは東京だけではありません。宇都宮や名古屋や京都等々全国にトップレベルの店があります)。
そこで提案であるが、この際だからJBAのコンクールで賞をもらったバーテンダーをフレンチ三ツ星のポールボキューズやアランデュカスのように海外に輸出したら面白いのではないだろうか。恐らく世界中のバーでモルトウィスキーブームやカクテルブームが巻き起こるはずである。
日本の寿司職人や料理人が海外で活躍する時代なので、バーテンダーもついでに輸出すると面白いかもしれない。

皆さんも海外に行ったら現地のホテルのバーの止まり木で銀座のバーのように注文してみてください。
日本のバーだけが世界で一番レベルが高いとすぐに判るはずです。