【第85回】平和の研究 その2 -非排中律のすすめ(後編)

それは日本以外の国々が論理的な文化を持っているからである。
西洋の数学的思考の背景にあるのが、アリストテレスの「オルガノン」にある形式論理学である。その原理は以下のような定義によっている。

■同一律(low of identity)
 「AはAである」 同じ言葉(概念)を一義的に定義する

■矛盾律(law of contradiction)
 「AはBである。AはBではない」 これら2つの命題が成立することは出来ない。
 ともに成立しないことも出来ない。

■排中律(low of the excluded middle)
 矛盾の中間はない
 その排中律を満たすときに成り立つ論理の方法が、背理法(帰謬法)なのである。
 背理法とは、何かを前提とすると、結果として不合理なことが起こる。従って、その前提の誤りを結論づける手法である。

例えば、以下のようになる。

1.証明したいこと Po
2.仮定 非Po
3.仮定からの結論 偽なる立言(××によって非Poは矛盾する)
4.結論 非Poを偽、ゆえにPoは正しい

要するに、背理法が成り立つのは、排中律を満たす時だけなのである。

これを靖國問題で解いてみよう。

1.証明したいこと 靖國神社は悪い(アジアの意見)
2.仮定 靖國神社はよい(宮司の意見、日本人はノンポリ)
3.仮定からの結論靖國神社がよいということは
A級戦犯に戦争責任がなかったことになる
ということは日本は戦争責任を感じていないということになる
日本は侵略戦争を起こして攻撃した事実に反する
(矛盾する)
ゆえに靖國神社はよいという考えは偽である
4.結論 靖國神社がよいというのは歴史的事実に矛盾するので偽。
ゆえに靖國神社は悪い。

これを全く別の背理法で説明してみよう。

1.証明したいこと 靖國神社はよい
2.仮定 靖國神社は悪い
3.仮定からの結論 靖國神社は戦没者を祀っている神社だから戦争犯罪や戦争責任とは直接関係がない。
外国の主張は墓を人格のように非難しているだけだ。
よって悪いという根拠はない(矛盾する)。
4.結論 靖國神社が悪いというのは戦争責任と関係なくただの墓にすぎない施設を攻撃することは意味がないので、偽。
ゆえに靖國神社はよい。

と、全く逆の結論になるのである。これでは平和は実現しない。西洋のディベートや論理学や数学を駆使して、相手を打ち負かすだけでは平和は実現しないのである。

ここで注意しなくてはいけないのは、中国侵略は悪であった、ということが宙に浮いていることである。靖国問題が戦争責任を代弁するという価値観はまったく共有されていないのである。ここに大きなズレがある。
同じ神社を起点としながら争点はかみ合っていない。
こうした場合に役に立つのが野村語録にある以下の考え方である。

・相手のことを理解する
・正しいか、正しくないかを見ない
・相手の言いたいことを解説する
・相手を理解しているということを言葉と態度で示す
・強くなるということは、受容性を高めることだ
・Informativeに接することが肝要

この正しいか、正しくないかを見ないということが肝心で、善悪正邪の判断を否定してお互いの立場を作らないと理解は生まれないということなのである。
排中律を破棄して矛盾の中間を認めれば共存協和は可能なのである。
一神教同士の戦いも同じである。
“あんたにも一理あるし俺にも一理ある”これが平和の方程式“非排中律”である。

この考えは仏教の中では昔からあって、ダライラマの“幸福になる心”などには、“たとえ悪意をもって攻撃する人間でさえも自分にとって必要な人間である”とさえ書いてある。

お互いの立場を敢えて主張しないところから、理解と対話は生まれるのである。

人間は生身であるから0と1を組み合わせて存在しているわけではない。
左右の手足の長ささえ同じではないのだ。
西洋の論理の限界がそこにある。