【第53回】ダンディズムとハードボイルド

昔、筆者の息子がまだ幼少の頃、耳で聞きかじった言葉を自分の立派なボキャブラリーとして使用して、大発明のギャグを連発していた(当人は至って真面目なのですが)。
曰く、

「“ロマンコネティ”って飲んだことある?」→ロマネコンティと言おうとしたらしい。

「僕、“ひんまじん”ができた」→じんましんと言おうとしたらしい。

「男は“ダンディムズムズ”だよね」→どうもダンディズムと言いたかったらしい。

最近、本屋に気持ちの悪い雑誌(ムシズが走ると言いましょうか)が山積みになっている。自ら自分のことを“オヤジ”と連発して、挙句の果てには“もてるオヤジ”などという、バカ丸出しのキャッチフレーズまで作って若い女性に媚びへつらってブランド物を満載した、おぞましい雑誌がバカ売れしているらしい。
何でもその雑誌は買うときにはエロ本並に恥ずかしいので上に文春を乗せて表紙が見えないようにして買う人が多いそうだ(某週刊誌の採用情報より)。

紳士(ジェントルマン)をスタイリッシュにする哲学(フィロソフィー)は“もてるオヤジ”にはない。昔からダンディズムとハードボイルドで構成されているのである。
そもそもダンディズムとは、ひょっこりひょうたん島のサングラスをかけたダンディさんから来た概念ではない(古いな~)。ダンディズムという概念は明快に 定義されたものではなく、19世紀の英国とフランス社交界の人気者、ボー・ブランメル(ジョージ・ブライアン・ブランメル)のスタイリッシュな生き様を1つのモデルとして始まった概念である。彼は英国の紳士服の1つの型を創造した人物でもある。
当時のビクトリア王朝の英国貴族の象徴的な“カッコ良さ”であり、バイロン、チャーチル、シャーロック・ホームズが代表選手であり、ダンディズムを日本語に無理に訳すと“伊達男”となる。
要するに、男の美学を追及するオジサンを指す。まさにダンディズムは“カッコいい生き方”、“クールな生き様”の象徴であり、ファッションやライフスタイルはその従属物に過ぎない。それゆえ、様々な男の生き様の美学の代名詞として使われる。

ダンディズムと言うと、

・精神のダンディズム       ・池波正太郎のダンディズム
・鎌倉武士のダンディズム     ・開高健のダンディズム
・不良のダンディズム       ・日本のダンディズム
・着物のダンディズム       ・勧進帳におけるダンディズム
・東京のダンディズム

のような色々な生き様の代名詞として使われる。

しかしその本質は自らの美学を追及した徹底したストイシズムにあった。
即ち、自らの美学のために自己を律した英国貴族のプライドを写像した生き様であったのだ。
このことを今は亡き日本のファッション界の重鎮でVAN創業者の石津謙介氏はこう語っている。


カッコ良さには二つの種類がある。顔立ちの美しさやスタイルのよさといった表面上の美しさと、雰囲気の美しさや潔さから感じられる美しさである。男の場合、後者の美しさをダンディズムと呼ぶのだと私は考える。そして、ダンディズムは美男子に生まれつかなくても、歳を取って足腰が立たなくなっても、男を美しく見せてくれるものなのである。
では、ダンディズムとはそもそも何か。私は、「ダンディズムとは独りよがりとやせ我慢のことである」と思っている。
(中略)
やせ我慢というのは、「自分がカッコ良いと思える状態を、ちょっと無理してでも保つ」というこだわりのことである。この「ちょっとの無理」は、たいていの場合、他人からは見えない部分だったり、他人にはどうでもよいと思える部分だったりする。真冬でもズボン下ははかないとか、ちょっときついけれど形のよい靴をはくとか、夏でもむやみに襟元を緩めないといった具合に、いってみれば些細なこだわりである。
(中略)
「カッコ良くなるために、ちょっと無理している」、そのことが自分に自信を与えるといってもよいであろう。ちょっと大げさに言えば、自分に無理を強いる自分の美学を持ち続けることこそ、ダンディズムの真髄なのである。
ダンディズムなんて、バカバカしいと思われる方も多いかもしれない。しかし、何を着るか、どうお洒落するかという部分で、他人の目を気にすることの方が、よほどバカバカしくはないのだろうか。
(以上週刊東洋経済2002年3月16日号より抜粋)



ダンディズムはその昔、日本にも存在した。昔の日本人は(江戸っ子というやつですな)これを粋(いき)と表現した。江戸っ子の粋は日本のダンディズムそのものと言える。
そう考えると江戸時代のオジサンもカッコよかったわけであり、“オジサン”が、新橋のTVインタビューで汚いダサイ社会の粗大ごみのように言われ出したのは、専業主婦に管理されて終身雇用のもとで社畜化した戦後のことなのである。
ダンディズムとは、ブランド物をチャラチャラひけらかすようなスノビズムを嫌い、自分の美学を全うするストイシズムなのである。これを19世紀の英国貴族も江戸っ子も“カッコいい”と思ったのである。これは昨今の“もてるオヤジ”の対極の人間像である。
そこには、ブランド物にも、女性にも媚びることのない男の生き方があるのである。因みに、小説におけるダンディズムを象徴するのはシャーロック・ホームズとジェームス・ボンドであります(ジェームス・ボンドに関しては後にメルマガで詳細を書く予定です)。

それと同様の概念が20世紀に米国で生まれたハードボイルドである。
筆者は学生の頃からミステリーファンで、ロスト・ジェネレーション(失われた世代)の文学から派生したこの分野の小説をこよなく愛している者の一人である。
ハードボイルド(hard boiled)とは、元来は“固ゆで卵”のことであるが、他には(ものの見方などが)現実的なだとか、冷酷な、非情なという意味もある。元々は第一次大戦後に米国文学を席捲した、スコット・フィッツジェラルドやアーネスト・ヘミングウェイ等のロスト・ジェネレーションと呼ばれる小説の文体から派生したミス テリー小説がその概念の根拠となっている。
ダシール・ハメットの「マルタの鷹」や「フェアウェルの殺人」等の作品に端を発し、ロス・マクドナルド、ミッキー・スピレイン、ギャビン・ライアル、ハド リー・チェイス等の作家が出現し、レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウによって完成されたミステリー小説である(ちなみに筆者はリンダ・ロー リングのパリ行きの切符の手配を断るマーロウの矜持がとても好きです)。

典型的なハードボイルドの人物像は、職業は探偵でトレンチコートに身を包み、ボルサリーノのようなソフト帽をかぶって、コルト45かスミス&ウェッソンの 28を胸のホルダーにしまい、バーボンを生(き)であおり、タバコを欠かすことのないタフガイである。カサブランカのハンフリー・ボガードが一般的なイメージに近い(小説上のフィリップ・マーロウに、もっともイメージが近かったのは1972年の映画「さらば愛しき人よ」のロバートミッチャムでした。念のため)。
ハードボイルドのタフガイは冷静で感情を表に出すことがなく、利によって動かされず(従って、現代のチャラ男のように“勝ち組”だの“成功”だのと叫びません)、自らの美学とルールに忠実に生きて、極めてストイックなのである。決して世の中や他人や女性に迎合することはしない。
それがハードボイルドである。
これはダンディズムの米国版である。19世紀のビクトリア王朝時代の英国貴族が20世紀の米国に生まれ変わってタフガイの探偵になった訳である。
どちらも自分の美学に忠実でストイックである。
この“カッコ良さ”こそ、世界中の紳士を魅了してやまなかったスタイリッシュなオヤジの魅力なのである。
ここには“もてるオヤジ”のような無様(ぶざま)なオジサンはいない。
サラリーマンをずっと続けて集団のなかで漫然と暮らしていると、誇り高い孤独とは無縁の人生になる。
ニューファミリーのマイホームパパに美学や孤独は必要ないからである。

自らの美学をストイックに追求する。
ダンディズムとハードボイルドの根底を流れる思想は同じである。
もし自分の目の前に、自分と全く同じDNA、容姿、性格、人格、のクローンのような(映画のISLANDのようですが)人物が現れたら、友達になりますか?という質問に皆さんはどう答えるであろうか?
“大親友になると思います”と答えられる人が何人いるだろうか?
“絶対に友達なんかにはならない。なぜなら金のためにいつも人を裏切るから”という答えしか出せない人の人生は悲しい。今から間に合うかどうかは判らないが、死ぬまでに自分の生き様を尊敬できるように、身綺麗に、ストイックに、自分の美学を守りきる事ができるであろうか?

自分の生き様は自分が決め、かつ自分が守る。
そういう自立した孤高の人格がダンディズムでありハードボイルドの美学である。
自分を絶えず尊敬できる存在として客観視できるような、居住まいの正しさを追求する。これは武士道にも通じるサムライの美学である(ここんとこ拝金主義民族には判らないでしょうね)。

ちなみに、ハードボイルドの主人公はニヒルで皮肉屋である。彼らの一言半句の名セリフはそのシニカルな性格とストイックな美学から発せられる。

「強くなかったら生きていけない、優しくなければ生きていく資格が無い」
byフィリップ・マーロウ

「からいばりはよしてもらおう。自信があるんなら強がりをいうことはない。強がりをいわなければならないようなら、ぼくと張りあっても勝ち目はない」
byフィリップ・マーロウ

「僕は嘘をいうのはいやだ。そしていいたくないことはいわない」
byフィリップ・マーロウ

「金の問題じゃない、主義の問題だ」
byマイク・ハマー

マーロウやホームズやボンドやヘミング・ウェイや開高には美学があった。かつての大人達は美学を追及するがゆえにストイックであった。
現在の日本では“勝ち組み”だの“成功”だの“生き残る”だの騒いで、えげつない金儲けに奔走する若造と、バカな雑誌をせっせと買い込んでブランド物をチャラチャラ身に付けた軽量級の中年オヤジが闊歩する軽薄な時代になったと思う。

天気晴朗なれど波高し、である。