【第26回】不幸な人々のための縁起入門

長年この商売に携わっていると、必ずある不思議な人格に出会う。
それはマネジメントに向かない人々の中の一派である。
マネジメントに向かない人々の特徴を要約すると、

1.人の面倒を見るだけの余裕(器量)がない
2.自分のことをいつも第一番に優先する
3.卑怯である
4.勇気がない
5.邪な考えをもっている
6.家の事情
7.健康問題

など、いろいろの要因があると思うが、この一派の人々は時々不思議な行動を引き起こす。
即ち、自分の望んだ(やりたい)ことをすると、必ず自分が不幸になるのである。

人は自分を幸福にするために(または欲求を満たすために)何かを求めて行動するのだが、その行動のために必ず自らは幸福にならない結果を生むのである。

例えば、以下の寓話で解説しよう。

A君はB子に好意を抱いていました。A君はB子と一秒でも多く会いたかった。
そこでA君は、24時間B子のまわりを徘徊した。電話も盗聴した。行く先にもついて行った。A君は幸福だった。大好きなB子といつも一緒にいられたからだ。
そのうちA君はB子からストーカーと呼ばれて嫌われ、警察に訴えられて逮捕されましたとさ。となる。

幸福の部分最適は幸福の全体最適を保障しないのである。

ある人間株式会社の社員に、心臓君と肝臓君がおりました。心臓君はいつも元気で健康でした。
それに引き換え、肝臓君は連日連夜の飲み疲れがたまって死にそうでした。
心臓君は肝臓君を指差して笑いました。「君は不健康な奴だな、あはは」
そのうちついに肝臓君は肝硬変で死んでしまいました。
その結果、人間株式会社も倒産してしまって心臓君も死亡しましたとさ。となる。


最近、テレビで中国が騒がしいが、彼らは自分達の愛国心を信じて自分のやりたかったデモを実施した。多分その結果、日本の企業は中国進出や投資をこれからどんどん縮小してゆき、彼らの労働条件はますます悪くなるだろう。最終的には彼らが投げた石は彼らに落ちることになる。
これも単純因果(simple causality、または線型因果:linear causality)という、基本パターンである。

毎日憂さ晴らしに隣人に悪口をたれたオバさんが逮捕されるのも同じ原理である。

自分の望むことをすると、なぜ自分が望まない結果になるか?
もし、このことに心当たりのある人はよく考えてもらいたい。
これは、原始仏教で釈尊が2000年以上も前に解明したメカニズムだからだ。
釈尊はこれを縁起と呼んだ。

十二支縁起:無明→行→識→名色→六処→触→受→愛(渇愛)→取→有→生→老死

縁起とは、他との関係が縁となって生起すること、Aに縁ってBが起こることである。
「よって生ずること」の意で、全ての現象は無数の原因(因)や条件(縁)が相互に関係し合って成立しているものであり、それによって結果(果)が生まれるという考え方である。
これは釈尊の悟りの本質である。
これを発展させて大乗仏教を完成させたのが中論の提唱者であり八宗の祖、龍樹(ナーガールジュナ(Nagarjuna))である。
仏教の因果律には、善因楽果、悪因苦果(よいことをすればよい報いがあって、悪いことをすれば悪い報いがある)という言葉があって、仏教は果(結果)は全て論理的な理由から導き出されると考える。これは確率100%の科学である。
その観点から説明すれば、正しくない行動や、正しくない考えは、苦しい結果を導き出すということになる。
これだけ冷静に考えれば明快な話しなのだが、悪因をもってして失敗し続ける人々は、自分の行動を「悪」とは考えていないのである。
そこに無知(無明)ゆえの不幸がある。

時によっては、本当に正しいと考えていることもある。
その典型例が騙す人間の論理である。「騙すより騙される奴が悪い」と彼らは完全に嘯く。
それはなぜかというと、無明(即ち無知)なるがゆえ、悪因を悪因と思わず苦果を悪因のせいと思わないのである。
それによって、自ら望んで自ら望まない結果をいつも引き出すことになる。
じつは、こういう人間と共存して生きなくてはならないところに人間界の困難さ、つらさがある。

釈迦の直接の説法を編集した原始仏教の経典に法句経(ダンマパダ)という教えがある。
釈迦は直接的には下記のように説諭している。

「浅はかな愚かな者たちは、自分自身にたいして敵のように振る舞う。悪い行ないをして、苦難の結果を得る」

皆さん、こういうのを「煩悩」というんでしょうかね。
バカにつける薬はないというのでしょうかね。
人類のアホによる不幸の連鎖が今もそこここの職場で続きます。