【第187回】余裕のない学習

最近、微分と積分をまた学び始めた。何かに役立つとか目的とかは特にない。単に知的好奇心である。
そこではたと気づいたことがあった。中高生の受験勉強は試験の点数を取るための手段であるから直接問題を解くことに主眼がいってしまう。
もともと学問が持っていた「何のために」という根本の理解をなおざりにしているものだから微分や積分が理解できなくても計算だけはできるというふうになってしまう。受験はその程度でいいのだ。結果的に答えが合えば点数はもらえる。
実はそれが受験勉強の本当の弊害である。原理原則をじっくり考えることをしなくなるのである。
そうなると、歴史のような複雑に絡み合った事象を論理的にひもとくことは難しくなる。また、学ぶことも楽しくなくなる。
そういう人が会社に入ると会社が犯罪をしていても盲目的に命令を実行してしまうような人間になってしまうのである。物事を大局から見る習性がないので当人的には違和感がないし正しいと思っているのだ。そのあとで逮捕されても自分の何が間違っていたのかは判然としない。

実は学問というものはすべからくモノのあり方や成り立ちや原理原則を理解して取り組むべきものなのである。
それが受験勉強になると点数ファーストになってしまってそれ以外はどうでもよいことになってしまう。
時間と能力が限られるので仕方がないといえば仕方がないが、たまに能力が十分にあってじっくりこなしながら理解する人がいるが、これを人は「地頭がいい」と評価するのである。または試験以外のことを詳しく理解していたりすると「あの人は教養がある」と言ったりするのである。
今は林先生や四谷大塚や東進スクールのおかげで通常であればn時間かかる勉強をn/10時間でできるように「コツ」を学ぶのである。それによって本来は有限であるはずの時間が無限になったり、本来ならば1か月かかるはずの学習を4時間くらいで済ますことができるようになるのである。
その余った(余っていなくて無理やり作っただけだが)時間で他の科目をさらに勉強するのである。普通の人が秀才に勝つための便法である。

しかし筆者のようにこれから発展する必要のない人材になると近道しても何も面白くないので、『本来は?』『そもそも』『原理原則は』にこだわって知的好奇心を追求するようになるのである。
社会人の大学院生と学部から上がった大学院生の迫力の違いは案外こういうところから来るのかもしれない。
筆者の両親(片方はもう鬼籍だが)は無知蒙昧を絵に描いたような人間で学問を学ぶなんてことはどうでもよく、いい点数を取っていい会社や学校に入るということを目的化していて子供に勉強を強要していた。そのくせ自分は「昔の人だから」という言い訳をして自分の無知を正当化していた。
筆者が今思うのは「あのね、学校では学問の本質なんか教えてくれないから。そもそも教師にそういう人はいないから。学問の本質が分かっていたら大学の教授がそもそも学校の教壇に立ってないから」ということである。

これから子供の受験戦争に自分の子供を投入しなくてはならない親には気の毒だが、学問に興味がないのに進学しても無意味である。授業料が無駄になる。
とは言っても、社会のスタートラインを有利に運ぶためにも必要な切符には違いないのだが、そのために青春を犠牲にした子供からすればたまったものではない。そういった親の無知からくる強要も現代のひきこもりの遠因になるのかもしれない。

最近ひきこもりが犯罪予備軍のように社会から見られるようになって、ますます「人と同じでない」「人並でない」生き方が理解されなくなってきたようだ。
日本は均質性の低い人間を排除する社会なのでますます生きにくくなってきている。
15~64歳の引きこもりの総数が100万人を超えるという内閣府の調査結果が発表されたが、これだけの不適合を生むほど日本の社会がいびつだということではないだろうか? 日本の「普通」は少し変わっているか、厳しすぎるのではないだろうか?
ただ、50過ぎまで自宅にいると経済的に大変なので大金持ちでない家庭の主婦は「恐怖の3段ロケット女」(本コラム【第118回】恐怖の3段ロケット女)にならないように注意してほしいものである。
飢えれば働くし飢えないで済むなら働かない。すべては母親の過保護主義にかかっている。
18歳を過ぎたら子供をサポートする必要はない。世界中(日本以外)の教育がそうなっている。

 

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