【第164回】 “なりたい自分” と “なれる自分”

ここに一つの悲劇がある。それは一つの不幸でもある。

主人公は平凡なサラリーマンのA氏である。
A氏は大学を卒業してから20年間、某商社で営業をやってきた。
業績はあまり芳しくなく、会社の調子が良くないときにリストラされてしまった。リストラされたときの年収は700万。
まだまだ転職が可能であると思っていたA氏は、最初は何の不安も感じていなかった。
ハローワークに行って、希望年収の800万の職を探したが、半年経っても1年経っても希望の仕事は見つからなかった。年収400万位の仕事ならいくつかあったのだが、A氏はそんな安い給料で働く気はなかった。
いつしか失業保険が切れて、ハローワークからも足が遠のき、家のローンも子供の塾の支払いも、なけなしの貯金を切り崩して運営する“竹の子生活”になってしまっていた。
妻はフルタイムのパートで12万位稼いでいたが、それでは家族の生活はカバーできない。
A氏は毎日これからの人生がどうなってしまうのだろうと不安で眠れない日々が続いている。

“なりたい自分” と “なれる自分” のギャップを自分自身の力で埋められなくなった人は多い。
“あるべき自分” と “現在の自分” を冷静に比較して、その差分を認識している人はほとんどいない。

A氏の実力 “なれる自分” は、年収400万のヒラの営業であるが、“なりたい自分” は年収800万の営業部長である。
その差(社会がA氏を評価した給与の差)は400万である。A氏は前の会社にいたときに400万余計にもらい過ぎていたのである。
ところが、同期のバリバリ働く連中が700~800万もらっているので(努力の内容や能力がまったく異なるにもかかわらず)、A氏は700万を正当どころか、安いとさえ思っていたのである。

“なりたい自分” と “なれる自分” のギャップが自分自身の努力や能力で埋められなくなったとき、人はどう生きたらよいのであろうか?
自分の身の丈を知る。その上で、その身の丈を肯定するしかないと筆者は思う。
人と比較することで競争してきた人にはこれができない。

筆者の父親が生前言っていた言葉に、
“同じ人間で、持っている24時間は同じなので、そんなに違うはずはない”

ギャップが理解できない人はこういう考え方を持っているのである。

本当は、同じ会社でもできる人間とできない人間では、同じ年齢でもその差(能力の差)は、0:100、場合によっては、0:500 位に差がついているにもかかわらず、0 のオジサンはその差を認めようとはしない。

“自分は正当に評価されていない” とか、“評価されるやつは陰でズルをしている” とか考えるのである。

日本人が天才に道を譲らない根拠は案外この辺にあると筆者は思う。
目の前の偉大な才能を、生きている時間が同じであるという理由で認めようとしないのである。

自分の身の丈を素直に直視すれば、ただ存在する(在籍する)だけで年収400万ももらえるということがどんなに恵まれたことであると理解できるのではないだろうか?
責任も負わず、財産を提供するわけでもなく、何のリスクも負わないでお金がもらえるサラリーマンというシステムは天国のような制度である。
皆は人と比べてそれでも年収が足りないと言っているが、それは大きな勘違いというものである。

手に職を持つということは、自分と社会の距離感を適正な基準で保つということである。
手に職を持たないサラリーマンはこれがない。
ゆえに、自分が社会においていくらの価値を有しているかが分からない。
自分はたいして能力もないし、働かないにもかかわらず(部下の手柄を横取りしてるかもしれませんが)、同期という名の100倍の能力の他人と比べて妙に安心しているのである。

そういう人が社会の荒波に出ると、“なりたい自分” と “なれる自分” にかなりの乖離があり、しかもそのギャップは自分自身の努力や才能ではもはや埋められないという現実に直面するのである。
こういう年の取り方をする人は実に多い。

ギャップが自分自身の努力や才能ではもはや埋められないとわかると、今度は卑怯な方法や邪な手段で自分のポジションを無理やり上げようとするのである。
なまじ頭がよいだけにこれが実に厄介である。

皆さんの周りにもこういう人いませんか?