【第158回】中国三大奇習

ここ最近、日中問題が顕在化して、そもそも中国人とは何か?ということをよく考えるようになった。
その結果、自分なりにかなり整理がついたように思うが、その調査の過程で一般の日本人には全く知られていない驚くべき事実がいくつも判ってきた。
今回はその一端を紹介してみたい。

皆さんは、中島敦という作家をご存知だろうか?(以下引用)


中島 敦(なかじま あつし、1909年(明治42年)5月5日 – 1942年(昭和17年)12月4日)は、日本の小説家。
中島家は代々、日本橋新乗物町で駕籠を製造販売する商家であった。敦の祖父・中島慶太郎(号を撫山)は家業を嫌い、漢学者・亀田鵬斎の子・稜瀬の門下とな り、稜瀬没後は稜瀬の養子・鶯谷に師事した。後に埼玉県南埼玉郡久喜町(現久喜市)に漢学塾「幸魂教舎」を開き、『斗南先生』のモデルとなった伯父・中島 端蔵(戸籍 謄本上は長男と記載されているが撫山には先妻との間に子があり、実際は撫山の次男)が祖父の漢学塾を受け継いでいた。他に中島竦・中島若之助・中島開蔵・ 中島比多木などの伯父・叔父がおり、みな漢学を修めて世に出ている。
父・中島田人(撫山の六男。戸籍上は五男)は1889年、文部省教員検定試験の漢学科に合格し、銚子中学校(旧制中学)で漢文の教員をしていた。生母・チよは、旗本の家柄で警察官をしていた岡崎勝太郎の一人娘で、小学校教員も一時していたとされる。
深田久弥とは深い交友でありその推薦で、デビュー作の『山月記』と『文字禍』(発表時の題は2作まとめて『古譚』)、続けて『光と風と夢』が発表された。 気管支喘息悪化のため早逝。『李陵』他いくつかの作品は、遺作として没後発表された。漢文調の格調高い端正な文体とユーモラスに語る独特の文体を巧みに使 い分けている。
『李陵』は深田が、遺稿に最も無難な題名を選び命名したもので、中島自身はいくつかの題を記したメモを遺している。
没後1948年、中村光夫、氷上英廣らの編纂で『中島敦全集』全3巻が筑摩書房から刊行され、毎日出版文化賞を受賞。以後、国語教科書に「山月記」が多く掲載されたため広く知られた作家となる。
(以上、Wikipediaより一部引用)


中島敦は漢学者の家に生まれて漢文に通暁し、中国文化に詳しいはずであるが、その中の一つに「弟子」という作品がある。これは、孔子の弟子の子路のことを書いた秀逸な短編である。 子路は粗暴で直情径行でいつも小才の利く子貢などからバカにされている愛すべき弟子として描かれている。その最後の一文は以下のようなものである。(以下引用)


既に薄暮のこととて庭の隅々に篝火が燃されている。それを指さしながら子路が、「火を! 火を!」と叫ぶ。「先代孔叔文子(圉)の恩義に感ずる者共は火を取って台を焼け。そうして孔叔を救え!」
台の上の簒奪者は大いに懼れ、石乞(せききつ)・盂黶(うえん)の二剣士に命じて、子路を討たしめた。
子路は二人を相手に激しく斬り結ぶ。往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。次第に疲労が加わり、呼吸が乱れる。子路の旗色の悪いのを見た群集は、この 時ようやく旗幟(きし)を明らかにした。罵声が子路に向って飛び、無数の石や棒が子路の身体に当った。敵の戟(ほこ)の尖端(さき)が頬を掠めた。纓(え い)(冠の紐(ひも))が断(き)れて、冠が落ちかかる。左手でそれを支えようとした途端に、もう一人の敵の剣が肩先に喰い込む。血が迸り、子路は倒れ、 冠が落ちる。倒れながら、子路は手を伸ばして冠を拾い、正しく頭に着けて素速く纓を結んだ。敵の刃の下で、真赤に血を浴びた子路が、最期の力を絞って絶叫 する。 「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」
全身膾(なます)のごとくに切り刻まれて、子路は死んだ。
魯に在って遥かに衛の政変を聞いた孔子は即座に、「柴(さい)(子羔)や、それ帰らん。由(ゆう)や死なん。」と言った。果してその言のごとくなったこと を知った時、老聖人は佇立瞑目(ちょりつめいもく)することしばし、やがて潸然(さんぜん)として涙下った。子路の屍が醢(ししびしお)にされたと聞く や、家中の塩漬類をことごとく捨てさせ、爾後(じご)、醢は一切食膳に上さなかったということである。 (昭和十八年二月)
(以上、中島敦「弟子」より一部引用)


この中にある、「醢(ししびしお)」が驚くべき事実なのである。
これはただの塩漬けではない。人肉の塩辛なのである。冗談と思われるかもしれないが本当の話である。
中島敦は、故意に書いたのか本当に知らなかったのかわからないが、白菜の漬物や梅干しの類と推察されるような書き方をしている。

2009年の映画で「孔子の教え」という中国映画があった。監督がフー・メイで、あの「男たちの挽歌」で有名な香港俳優のチョウ・ユンファが孔子の役である。
この中の1シーンで、孔子が魯の昭公に仕えているときに、当時の魯の実権を握っていた三桓氏にいじめられるエピソードがあった。そのシーンで孔子は、配給 されるはずの肉を1日中家で楽しみに待っていたのだが、ついに肉は配給されず落胆するというシーンがあった。この肉は人肉だったのである。古代の中国では 人間は立派な食糧だったのだ。

仏文学者で俳句第二芸術論を展開した(「筆者コラム【第130回】私的尾崎放哉回顧録 -心の写真」」参照)桑原武夫教授の父親が京大の漢学の泰斗で桑原隲臓(じつぞう)という学者であるが、その桑原先生の論文に、中国における人肉食の歴史が詳細に記されている。

「支那人間における食人肉の風習」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/42810_23981.html

「支那人の食人肉風習」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/4270_14876.html

(以下引用)


支那人は世界に誇負すべき悠遠なる文化を有せるに拘らず、彼等は古代から現時に至るまで、上下三千餘年に亙つて、繼續的に Cannibalism の蠻習をもつて居る。恐らく世界の中で支那人程、豐富な Cannibalism の史料を傳へて居る國民は他にあるまい。古代から支那人が食人肉の風習を有したことは、經史に歴然たる確證が存在して、毫も疑惑の餘地がない。
(以上「支那人間における食人肉の風習」より一部引用)


中国には三大奇習というべきものがある。
一般的には、宦官、纏足、科挙と言われるが、宦官、纏足、人肉食とも言われる。
レッドクリフの時代、戦争の目的の1つが食糧の調達であったことはあまり知られていない。
前述の醢(ししびしお)であるが、これは人肉を刻んで干して麹や荒塩と混ぜ、酒で漬け込んで保存しておく一種の塩辛である。 孔子はこれが好物であった。
中国には他にも「羹(あつもの)に懲りて膾を吹く」という諺があるが、羹とは人肉のしゃぶしゃぶである。
脯(ほじし)は干物、臠(きりみ)は生肉を細かく刻んで食べる、いわゆる刺身、ユッケやタルタルステーキのようなものである。「孔子の教え」でもこの生肉を食べるシーンが出てくる。
これらは善悪の被岸にあるものである。
なぜなら風習だからである。
レッドクリフ時代の戦争は単なる戦争ではなく、食料調達という側面があったのである。
中国にキリスト教やイスラム教や仏教が広まらなかったのは、共産党だけのせいではなく、この風習と相対峙するからである。
食糧事情が、宗教事情に勝ったといえる。

四本足は机以外なんでも食べる
三本足は飛行機以外なんでも食べる
二本足は両親以外なんでも食べる

と言われた広東の諺は冗談ではなかったのである。
同時代にヘブライ人によって制定された、モーゼの十戒にある、“汝、殺すなかれ”という教えは中国的には成立しない。“汝、食べるなかれ”は、古代ヘブライ人にもない発想であった。
聖人君子の代名詞である孔子の大好物が人肉であったというのは驚くべき発見であった。
江戸時代にこんなことを言っていたら、切腹ものである。

これくらい彼らは生に執着している。それ故、同じ村の人間でも信用できない。家族以外の他人は信用しない。
なぜならば1歩間違えると食糧になってしまうからである。この延長上に「幇」(“パン”または“ほう”)という概念がある。

小室直樹先生の「中国原論」という本の中に以下のような説明がある。(以下引用)


中国人理解の鍵は「幇」にあり

さて「幇」と「幇以外の人間関係」の違いとは――。
ちがうのちがわないのって、根本的に違う。天地雲壌の違いである。幇(自己人ツーチーレン)内の人間関係たるや盟友も盟友、絶対的盟友である。死なばもろともである。勿論、いくら借金したって証文なんかごうりも必要としないことは言うまでもない。
この幇こそ中国独特の人間関係であるから、徹底的に腑に落としきっておかねばならぬ。
(中略)
劉備、関羽、張飛、の三人は、以前からずっと見知っていた訳ではないし、血を分けた兄弟でもない。しかし、ひとたび桃園で義盟を結ぶや、実の兄弟なんかと は桁違いに固い契りの義兄弟となって、ここに劉備・関羽・張飛の三人幇、三人組みが成立する。今の言葉で言うと彼らは(自己人ツーチーレン)である。
(中略)
こうなってしまったら最後、彼ら三人のあいだの契りがいかに固いものか。
彼ら三人のあいだでは、利害、争いから完全に自由であり、絶対に信頼でき、完全に理解しあい、そして生死を共にする。まことにそのとおり。一点の疑点もない。これが幇(幇会(パンフェ))内の人間関係である。 (中略)
幇内の人間関係は、まことに生死をともにするものである。このことは、繰り返し強調した。
では、幇外の人間関係は、どういうことになるのだろうか。
ひとことでこれを言うと――。
何をしてもよろしい。窃取強盗ほしいまま。略奪、強姦、虐殺・・・・何をやっても少しもかまわない。いや、かまわないどころではない。それが論理であり、それが道徳である。・・・・・ ナニ、略奪、虐殺、・・・が倫理・道徳だなんて。驚きたもうこと勿れ。
よく知られているところでは、かっての古代ベドウィンの民。砂漠の流浪民なのだがチャンスがあれば、隊商でも村落でも、ほしいままに略奪し、虐殺 し・・・。こんなこと、古代ベドウィンの倫理・道徳では、少しも不倫でも非道でもない。全くもって、倫理的・道徳的な行いそのもの。
(以上「中国言論」より一部引用)


内と外で全く異なる規範が存在する中国社会における一つの共同体がこの「幇」であり、もう一つの共同体が、血縁共同体である宗族(そうぞく)である。
これは食糧になるかならないかの境目と解釈することができるのではないだろうか?
古代中国においては「幇」と血縁のつながりの「宗族」以外は、食糧になりうる可能性があり、同胞ではなかったのである。これくらい厳しい遊牧民の生存競争があったのである(中国人はもともと中平原を跋扈した騎馬民族でした)。

我々はこのくらい生に執着して生き抜く民族と対峙しているのである。
心してかからねばならない。