【第154回】オジサンを教育する方法

“大人になったら判る”

誰でも一度は過去にこう言われた経験があると思う。
このことの意味は“時間が経ったら理解できる”か、もしくは“時間が経って成長したら理解できる”ということである。
これは5~10歳の子供には有効なセリフである。大人になるまで10数年時間があるからである。

こういう発言の背景にはいろいろあるが、真っ当に考えると“今の君のレベルでは理解できない内容なので正しいか正 しくないか、役に立つか立たないか、今は理解できないかもしれないけれど、とにかく言われたようにやりなさい”という ことを指示しているのである。
これはレベル10のスキルの人間がレベル1のスキルの人間にものを教えるときのメソッドである。
これがレベル10の人間がレベル9や8の人間にものを教える場合であれば指摘された内容や教えは沁みわたるよう に理解できるのできちんと内容を説明すれば伝わるが、何の基礎も経験もないレベルの人間にものを教えようと思っ たら、理解を伴う指導は不可能である。犬に躾をする方がまだ簡単である。これは対子供の場合は有効である。なぜなら絶対時間があるからである。

これが30代、40代、50代のオジサンであったならば立場はどうであろうか?
10年後20年後に理解できることを考えることが可能であろうか?
10年後20年後までその教育をフォローアップすることができるだろうか?

言うまでもなく不可能である。
それゆえ、レベル10の人間は(少なくとも職場では)レベル1の人間を育成することは難しい(死ぬほど時間があって面 でケアできれば別であるが、それにしてもとても厳しい指導になるであろう)。
筆者は日教組が支配している平等主義の日本で教育を受けたので、人間は平等に生まれ、教育によって作られると 長らく思い込んでいたが、実際に現場でやってみて、人間は教育だけではどうにもならないということを理解せざるを 得なかった。資質や遺伝や養育環境によるポテンシャルがないと教育は無意味である。

例えば、読書習慣のない人が本からものを学ぶことは困難である。 本の世界は言わば疑似体験の世界で、体験したり発見していないことでも学ぶことのできる知を与えてくれるもので ある。言わば、シミュレーションである。
これによって人は失敗しなくとも失敗の体験をし、体で覚えなくともスキルを吸収し、効率よく系統的に整理された知を 獲得できるのである。 皆、本やマニュアルによって知を疑似体験し習得しているのである。
これが出来ない人は死ぬほどの時間をかけて学ぶしかない。しかもランダムに学んだ知識を整理する能力がなけれ ばせっかく学んだ知識も役には立たない。
これも資質の一部である。資質のない人に読書習慣を植え付けたり、論理的思考力を身につけさせることは限りなく難しい。そうなると、システ ムエンジニアという職業は誰にでもなれる職業ではないのではないかと思うようになった。

SE-システムエンジニアは、一応エンジニアと名前が付くので主たる役割は設計することである。設計するためには 高度に統合された知識と論理的思考力が必要である。
また、絶えず変化するテクノロジーに追随するためには、知的体力と旺盛な好奇心が不可欠である。そんな人間は滅 多にいない。そんな素晴らしい資質があったならば、何も重労働のSEになる必要がないのかもしれない。
スクラッチ開発で事故が絶えないとか、コストオーバーするとか、納期が守れないということの裏にはこうした業界の絶 対的な人材不足がある。

また、こういう人材は教育によって作ることが出来ないというのも一つの大きな問題である。
大人になるまでの時間をかけれない中年のオジサンをどうやったら教育できるのか、これは筆者の抱える大テーマで ある。

“君ももう少し大人になれ”とか、“○○さんは大人だねぇ”とか、“年の割には大人だ”などというのもよく聞く言葉であ る。
大人とは子供の対語である。集合論で表現すると非子供である。これが成人と呼ばれる20歳が妥当なのか、30歳が 妥当なのかは見解の分かれるところである。
“大人になれ”の言葉の裏には、“今はガキだけど背伸びして大人の風格や人格を体現せよ”という、とても難しいアド バイスである。
そこで、そう言われた“子供”は、自分の想像する大人のイメージをとりあえず演ずることになる。
すなわち、感情的にならない、落ち着いている、物腰が柔らかい、清濁併せ呑む本音を言わない器の大きい、そうい う人物像を演じてみせるわけである。

ところが、よく考えてみると、大人は子供から見た価値観なので、本当に年を取って髪が白くなって、皺も出来たら、そ んなものカンケーねー、なのである。

物理的に40歳になったならばもれなく大人なのである。従って、40歳を過ぎたら大人を演ずる必要はないのである。に もかかわらず、40歳を過ぎても大人を演じているオジサンが時々存在する。これがなかなか厄介なのである。
本当は素直で本音ベースの大人がいたって構わないのに“大人ぶった”教養が邪魔をして変な大人を演じ続けている 。
これは実に滑稽なことである。こういう間違った形式主義の大人観をもったオジサンを改造するのも実は困難な仕事 である。
世の中の9割のオジサンは改造不能、教育不能である。変われと言われても足がついていかない。手が動かない。頭 が回らない。

考えてみたら江戸時代の平均寿命(つい戦後までそうでした)は50代である。60歳まで生きる人は少なかった。
従って、落語などに出てくる近所のご隠居さんは、70、80代の爺さんではなく、40代後半から50代のオジサンだった のである。すなわち人間としての役割と寿命が終わった年代なのだ。
それが現代になると医学の進歩によって誰でも80才まで生きるようになったので、江戸時代なら隠居していたはずの オジサンをもう少し長く働かせるために再教育する必要が出てきたのである。これが悲劇を生んでいるのである。

人間としての能力の寿命が来た人に対して、高校生のように学べと叱咤激励するものだから、オジサンとしてはたま ったものではない。これは現代日本の社会問題でもある。
生物としての寿命が来たオジサンを経済的理由によって老化させないというのはかなり過激で過酷なトライアルであ る。場合によっては暴力に近い。
企業としても高禄を食んでいるオジサンに活躍してもらわないと採算が取れないのである。
そこに時代のミスマッチがある。

だれかオジサンの再教育法があったら教えてください。