【第149回】仏教とは何か(後編)

集諦(じったい)
前述の苦諦、苦の解析をもとにして、その苦(不幸)がどこから来るのかというのをあきらかにする分析作業が集諦である。
釈迦は渇愛のよる執着(こだわり)が苦(不幸)の原因であると断じた。これを煩悩という。
筆者は煩悩とか無明は、人間脳ではなく恐竜脳の領域であると考えている。即ち、怒り、闘争心、食欲、性欲のような脳幹からの欲求に屈した姿を指していると考えている(本コラム第104回「人間脳と恐竜脳」参照)。

また、この集諦の根本をさらに分析して十二因縁という理論を展開した。この十二因縁は後述する。

滅諦(めったい)
その煩悩を制することで欲望を制し、真の安楽を得るという境地が滅諦である。迷いを断ち尽くした平安の境地のことである。
たとえば原始仏教の経典ダンマパダ(法句経)では怒りや恨みを制することに対して以下のように述べている。

3  「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから
   強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。
4  「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから
   強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。
5  実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの
   息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。
221 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とに
   こだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
222 走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人___かれをわれは
    <御者>とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。
    (<御者>とよぶにはふさわしくない。)
223 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。
   わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。

道諦(どうたい)
道諦は滅諦に至るまでの実現方法で、そのメソッド八正道であると説いた真理である。苦(不幸)の原因を克服する方法を具体的に提示したものである。

八正道とは、
正見(しょうけん):正しいものの見方
正思惟:正しい思想
正語:正しい言動
正業:正しい行為
正命(しょうみょう):正しい生活
正精進:正しい努力
正念:正しい意識と注意
正定:正しい精神統一

の日常を律するための掟である。要するに、八正道を実践して清く正しく暮らすことにひたすら専念することによって、金持ちになりたいとか、酒池肉林 に溺れたいとか、喧嘩で相手をやっつけたいだとか、恐竜脳に支配された(小脳に支配された)欲望や煩悩を制しなさい、それが修行ですよ、ということであ る。

これが“四諦”と“八正道”の関係である。

もう1つの教理である、十二縁起は、十二因縁とも言い、人間の苦しみや悩みがいかにして成立するかということを考察し、その原因を追求して分析し、 12のステップに分けて論理的に(風が吹けば桶屋が儲かる式に)解説したものである。親の因果が子に祟り、というやつである(ちなみにDNAには親と子一 代相伝のキャッシュメモリ部があり、この親と子だけで伝わる性格情報を仏教(唯識)では種子(しゅうじ)と言います。自殺や犯罪、勤勉や学問好き、女好き が遺伝するのはこの一代間で伝達される人格情報のせいです。なので、卑怯な振る舞いをする人や行いの悪い人は子供を作ってはいけません。人格が遺伝するか らです。これは本当です)。

話が横道に逸れてしまったが、大乗仏教のエースである、ナーガールジュナ(龍樹)が中論という有名な本で展開し、大般若経や般若心経の基本思想となった“空”の概念は、そもそもこの十二縁起の発展形なのである(般若心経の色即是空、空即是色で有名な哲学です)。

空の解説はあとで紙面が余ったら行うことにしようと思うが、この十二縁起は以下のとおりである。

無明(むみょう):過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。無知
行(ぎょう):志向作用、潜在的形成力
識(しき):識別作用
名色(みょうしき):物質現象(肉体)と精神現象(心)
六処(ろくしょ):六つの感覚器官(眼耳鼻舌身意)
触(そく):六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること、接触
受(じゅ):感受作用
愛(あい):渇愛、妄執
取(しゅ):執着
有(う):所有、独占
生(しょう):生まれること
老死(ろうし):老いと死

これらは不幸(苦)の論理サイクルを説明している。これはあるパターンはいろいろな関係がつながって起きる因と縁によってできた結果(果)ですよ、という考え方である。釈迦はすべての苦の原因を無明と特定しその無明を断ち切ればよいと考えたのである。
無明の成分は筆者の考えるところ、本能のままの状態を指す。別の表現にすると脳幹(恐竜脳)に支配された状態で発生する怒りや闘争本能や性欲や食欲や睡眠 欲などの本能的欲求をコントロールできない状態を無明と言っている。その無明から発生する渇望が行、識、色。六処、触、受、愛、取、有の順序で推移し行動 として発現すると分析したのである。
このメカニズムが煩悩を生み出す原因であるならば、それを断ち切るには無明を消してしまうことが人生の苦と決別する道であると考えたのである。

縁起とは“甲に縁って乙が起こること”、すなわち、“甲が原因または条件となって乙が成立すること”という意味である。
これは、諸々の事象は無数の原因や条件によって作られており、変化し続けるものであり、作用し続けるものであり、不変のものは存在しないという真理でもある。

スッタニパータの8つの詩句の章にこういう一文がある。

人々は「わがものである」と執着したもののために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものであるとみて、在家にはとどまってはならない。
人が「これはわがものである」と考えるもの-それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は賢明にこの理を知ってわがものという概念に屈してはならない。

縁起の思想を発展させたものが空であるが、色即是空、空即是色という有名な般若心経のフレーズも常ならず変化し続けるということを言っている。形あるもの は形のないものであり、形のないものは形のあるものである。そういう風に変化し続けるので同じであり続ける実体はないということである。

“禍福はあざなえる縄の如し”という諺は、幸福も続かないし不幸も続かない、変化し続けるから現在の不幸に執着するなという立場である。

ちなみに大乗仏教には様々な形の“空”のテキストがある。大般若経600万字を266字にダイジェストしたのが般若心経で、その266文字の般若心経を53文字にダイジェストしたのがいろは歌(いろはにほへとちりぬるを/色は匂えど散りぬるを)である。
その53文字のいろは歌をダイジェストしたのが諺の“禍福はあざなえる縄の如し”の15文字である。それらはすべて“空”の思想を説いている。

浄土真宗の大スター親鸞の説いた有名な説法に“他力本願”というのがあるが、このことの本当の意味は“他人を頼る”ということではなく、“自らは他 によって生かされている”、すなわち、自分の命は他の生命体や自然の働きを因として縁と結んでいるという考え方で、立派に縁起の思想であり、空の思想なの である。異端と言われながらも根本の流れは同じである。
要するにこれらの思想は量子力学のような観点で、宇宙の中に不変なものなど何もないのだから今の今を見て一喜一憂するのはナンセンスなのだよ、という意味 であり、明日の幸せは今日の正しい行いの延長線上にあるので、結果が予想できなくても真面目に誠実に生きなさい、と言っているのである。
ダンマパダ(法句経)にはまたこういう力強い説法がある。

116 善をなすのを急げ。悪から心を遠ざけよ。善をなすのにのろのろしたら、
   心は悪事を楽しむ。
117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。
   悪が積み重なるのは苦しみである。
118 人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心掛けよ。
   善いことが積み重なるのは楽しみである。
119 まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。
   しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う。
120 まだ善い報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。
   しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遭う。
121 「その報いは私には来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴
   ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少
   しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいに満たされる。
122 「その報いは私には来ないであろう」とおもって、善を軽んずるな。水が一滴
   ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされる。気をつけている人は、水を少し
   ずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳に満たされる。

因と果の間の公式は単純な線形ではなく、もっと複雑な非線形であるということを言っているのである。それゆえ、正しい“果”がいつ出るかは不明であるが、現状が永遠に続くということもないと仏教は諭しているのである。

仏典には(特に初期の経典)イスラムのコーランのように天国だのあの世というのは出て来ない。
釈迦も“あの世はどうなってますか?”、“死んだらどうなりますか?”という質問に一切答えていない。
仏教は徹底した現世への哲学である。本能から来る欲求や渇きや煩悩をいかにコントロールして苦(不幸)を滅却するかという知恵なのである。
その徹底した合理主義が筆者は気に入っているのである。

筆者は出家者でも修行者でもないし、どこかの宗派に帰依しているわけでもないのでこれらの解釈は自己流である。
仏教は不思議?な宗教で、一神教でもなく多神教でもなく、あきらかに世界中の宗教のなかでも異質で独創的で科学的で論理的な世界を持っている。
そこが面白いと思うのだ。
ちなみに“怪力乱神を語らず”というのは論語における孔子の発言でもある。
これもまた現世への哲学たる所以である。