【第148回】仏教とは何か(前編)

“仏教とは何か”
開高健は生前よく「一言半句」という言葉を使った。これは最もシンプルな表現もの言いの総称で、説明や、余計な形容詞や、関係代名詞の付かない簡潔明瞭な表現や説明のことである。
世の中で一番難しいことの一つに、“簡単に言ってみろ”というのがあって、膨大複雑な概念を“一言半句で簡単に言ってみろ”というのが実は一番難しいことなのである。
それゆえ、上記のタイトルは仏教学者の中村元先生クラスの大碩学の担当する領域であるが、信仰心皆無で宗教マニアの筆者の私見を現時点でまとめようと思っていたので、僭越ながら挑戦してみたい。

その前に、どうしてこういう大それた試みをやろうと思ったかと言えば、最近筆者の友人で某Kの科学という新興宗教に帰依している人がいて、その教祖 の本を毎回送ってくるので一応義務で読んではみるのだが、これが先祖の話や背後霊の話を除けばなかなかいいことが書いてある。一見、仏教風の教えもあっ て、いい説法も散見される。

そこで、じゃぁ、我々が知っている(と思い込んでいる)仏教とそれらの新興宗教とは何が違うのか、そもそも仏教とは何なのかを整理したくなったのがこの雑文の背景である。

前置きが長くなってしまった。閑話休題。

“仏教とは何か?”

筆者は、“現世を生き抜くための知恵”であると考えている。

仏教は北伝した大乗仏教と南伝した上座部仏教(最近は小乗仏教という言葉は使いません)に現在は流派が分かれているが、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)がいた時代にはもちろんそういうものはなかった。
空も禅も般若心経も唯識も後代の概念である(後代の概念と言ってもちゃんと原始仏教の神髄を受け継いで発展させたものなので邪道ということではありません)。
現世を生き抜く知恵なんて言うとユダヤ教のタラムードのようなものかと思われるが、この知恵は哲学と言い換えてもよい。“現世を生き抜く哲学”と言うこともできる。決して奇跡や超自然現象や怪力乱神は登場しない。リアルな人の生き方に対する哲学である。

もともと釈迦は文字を残さなかった。また、彼は人によって説法を変えたので同じ内容の説法を繰り返し述べたわけでもない。
現在、原始仏教の教典となっている、ダンマパダ(法句経)やスッタニバータやパリ二ッバーナ(涅槃教)は釈迦の入滅後に最後の旅に随行したアーナンダを始 めとする弟子が数百人集まってその言行を文字に書きとめたものなのである。それがパーリー語(釈迦時代の俗語、釈迦は聖典ヴェーダを記述した古代サンスク リット語による布教を禁じました)やサンスクリット語(古代インドの文語体)の教典として記述された。
そのパーリー語やサンスクリット語の原典を中国に持ち帰り、中国語に翻訳したのが玄奘三蔵と鳩摩羅什である。我々が知っているお経というのは、すべて玄奘三蔵と鳩摩羅什が訳した中国語版である(厳密にはもっとありますが現在の漢訳仏典はほぼこの二人の翻訳によります)。

これがガンダーラやチベットを経由して中国に伝達するまで約500年を経過し、その間にナーガールジュナ(龍樹)の確立した空の思想(中論)や、そ れに基いて作成された大般若経や般若心経が出現した。また、世親(ヴァスバンドゥ)や無着(アサンガ)兄弟によって確立された唯識(法相宗の教義)などが 一緒になって混じり、さらに中国に伝播して中国的な発展を遂げた禅の思想があり、さらにバラモン教の要素を取り込んでチベット経由で発達した密教が成立し て、それらすべてが漢訳経典として飛鳥時代から平安、鎌倉時代までに一挙に日本に輸入されたのである。
それゆえ、日本の仏教は空もあれば唯識もあれば、禅もあれば、密教もあれば日本独自に発達した浄土信仰もあるという、百花総覧状態になったのである。
最近(20世紀)になって、中村元先生がパーリー語の原始仏教の原典を翻訳するようになって、江戸時代や明治時代までは不明であった原始仏教の形が理解されてきたのである。

筆者は仏教というものは非常に科学的で合理的な哲学であると考えているが、その傾向は原始仏教の方が強い。
それゆえ、怪力乱神は一切登場しない(維摩居士を誘惑する魔女というのは出てきますが、それは比喩です)。
原始仏教の目指したものは人間の苦のメカニズムを解き明かし(この場合“苦”というのは上手くいかないことくらいにとらえた方がいいと思います)、その苦のメカニズムから脱却する考え方(フィロソフィー、無理に訳せば哲学ですな)を示したものなのである。
苦というと、苦悶、苦行、苦役、苦労、のようなネガティブなイメージなので、橋爪大三郎氏などは極端なニヒリズムととらえている(橋爪氏著「世界がわかる宗教社会学入門より」)。人生を苦と定義するので仏教をペシミズムという学者もいる。
たまたま中国語に訳したときに“苦”という文字をあてたので、仏陀は人生をネガティブに考えたと解釈する人が多いが、筆者は“苦”=思うようにならない、 うまくいかないという意味に解釈していて、この解釈から考えると、“一切皆苦”とは人生はうまくいかないことだらけだ。という意味になる。人生とは不幸な ことばかりだ。ともいえる。そのうまくいかない人生をどう生きるかというのがもともとの仏教のテーマなのである。

原始仏教で釈迦が説いた教えは、“四諦” “八正道” “十二縁起”の思想である。
大乗仏教の空の思想はそれらの発展形として後代に成立した概念である。より哲学的に精緻を極めた発展形なのである。

“四諦”の諦とは、明らかにするという意味で真理のことである。不幸の原因追求、不幸の解析である。生産管理的に言えば、不幸(苦)の4つのなぜである(5つではない)。
これによって原始仏教は不幸(うまくいかない人生)の真因を分析し、それに対する対処法を提示するのである。

四諦は、苦諦、集諦(じったい)、減諦、道諦に分類進化する。
苦諦とは“人生の本質は苦である”ということを言っているが、これには超訳が必要で“人生は思い通りにならないことばかりだ”、“人生は上手くいかないことばかりだ”と訳した方がいいと筆者は考えている。

釈迦は上手くいかないことの例として、四苦八苦という凡例があると主張した。
だがこれは弟子や聴衆に例えばの話として提示した凡例にすぎないと筆者は解釈している(苦を具体的にイメージしてもらうための誰にでもあてはまる事例です)。

四苦とは、

生苦:生きる苦しみ
老苦:老いる苦しみ
病苦:病気になる苦しみ
死苦:死ぬ苦しみ

のことで、人間であれば誰でももれなくこの苦を背負っているでしょ、上手くいかない要素を誰でも生物的に持っているでしょ、と主張するわけである。
とにかく人間のライフサイクルの生老病死そのものが苦(上手くいかない)のメカニズムで構成されているということを論理例としてあげているのである。

八苦とは、

愛別離苦(あいべつりく):愛する人との別れの苦しみ(不幸)(家族、恋人を含む)
怨憎会苦(おんぞうえく):嫌いな人と出会って不愉快な目にあう苦しみ(不幸)
求不得苦(ぐふとくく):欲しいものが手に入らない、望んだことが叶わない苦しみ(不幸)
五蘊盛苦(ごうんじょうく):色受想行識の五蘊から生ずる煩悩が引き起こす苦しみ(不幸)

のことで、普通に生きてゆくのは不幸だらけでどうしようもないことばかりだと現状を厭世的(ペシミスティック)に分析するのである。要するに、普通 の人間が普通に暮らすと人生は不幸のオンパレードだということをこれは主張している。人生の実態に対する共通理解を共有する分析である。

ちなみに五蘊は瀬戸内寂聴が著書の仏教塾のなかでこう解説している(以下引用)。


そこで五蘊の話に戻せば、「識」(精神)があって初めて「色」(物質)が存在することができるわけですが、「受・想・行」はその間をつなぐプロセスです。
「受」とは、感受作用。そこに物があると感じる作用です。
「想」とは、知覚表象作用のことで、外界の印象を象に結ぶ作用です。「行」とは意志や、その他の心の作用です。「識」とは認識する作用のことです。私たち がビフテキを食べているときには、この五つのプロセスを無意識のうちに行っています。眼の前にビフテキがある。それを見て、「ビフテキ(=色)があるな」 と感じる。これが「受」。そうすると、いい匂いがする。「あっ、ビフテキ、おいしそうだなあ」と思う。「ちょっと食べてみようかしら」と思うでしょう。そ れが「想」です。太ったら困るなあと思うけれども、つい食べる。これが「行」。そうすると「ビフテキはおいしかった」と認識する。これが「識」です。この 流れが「色・受・想・行・識」の五蘊です。
私たちは誰でもそうした感覚能力を持っているわけですが、それが煩悩を産みだし、苦しみを作っているというのがお釈迦さまの言う「五蘊盛苦」なんです。

(以上、瀬戸内寂聴著「寂聴仏教塾」より一部引用)


次回に続く