【第141回】消された韓国の歴史 -韓流ドラマのウソ

2007年頃の夏、アシアナ航空に乗っていた筆者は座席のビデオ・オン・デマンド・サービスで面白い料理番組に出会った。
題材は宮廷料理のようだが、出演の料理人の女性達が華やかなチマチョゴリを着ていて美人ぞろいなので、何という豪華な料理番組だと思って見ていたら、様子が少し違うのでよくよく見てみると、かの有名な『チャングムの誓い』であった。
筆者はそののち、怒涛の如く『大王四神記』『チュモン』と立て続けに韓流歴史ドラマを見ることになるのである。
そうなると、持って生まれた好奇心というか、知識欲がムクムクともたげてきて、韓国、朝鮮の歴史や文物風俗を徹底的に調査することになったのである。

今回はその驚愕の事実をレポートしたい。ちなみに、この大部分の事実を韓国の国民も日本人もほとんど知らされていない。

テキストは19世紀の英国地理学会特別会員で、金田一京助よりも前に世界にアイヌの風俗を紹介した冒険旅行作家のイザベラ・バード著『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』である。

イザベラおばさんが朝鮮半島を旅したのは、1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて4回であるが、その間に日本の韓国併合が行わ れ、イザベラおばさんは併合前の朝鮮と併合後の朝鮮を詳細にレポートして韓国の近代化と近代化する以前の韓国を英国人しかも英国地理学会という半ば公的な 視点で客観的に伝えている。

■木工技術 -チュモンは馬車には乗れなかった
皆さんは大久保やソウルの韓国料理屋に一度は行ったことがあると思うが、内装が日本の料亭のように(要するに数寄屋造りのように)洗練されていなく、木の 窓枠などもカンナがけ一つろくにしていないような、素朴というかザックリというか、もう少し違う言い方をすれば「粗末な造り」になっていることを疑問に 思ったことはないだろうか?
わざと民芸風に見せるためにああした家の造作になっていると思うかもしれないが、19世紀までの韓国には木工技術がほとんどなく、特に木を曲げる技術がなかったので、日本の大八車のような2輪以上の車輪を作ることができなかったのである。
日本では平安時代に牛車のような輿が存在したが、なんと韓国では19世紀の明治時代になっても車輪を作る技術がなかったのである。
それゆえ、当時の貴族階級である、両班(リャンバン)は、荷台にイスを乗せて下に一輪車のついた奇妙な輿を4人の従者(正確には奴隷)に担がせたのである。

http://kuyou.exblog.jp/1071826/

木を曲げる技術を1000年間持たせなかった文明はこの朝鮮とインカ文明だけなのである。ゆえに、大王四神紀やチャングムやチュモンで登場する2輪 車及び4輪車は捏造されたものなのである。木工技術が発達しなかった背景として、19世紀までのソウルでは2階以上の建物の建築が儒教的考え方から禁止さ れており、すべて地面に直接柱を立てて藁で葺いた単純な掘立小屋のようなところに住んでいたのである(写真も残っています)。

http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/nikkanrekisi.html

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/18286902.html

もちろん、そのような造りの家なので、家にはトイレも水道も風呂もない。風呂がないということは入浴の習慣もなかったのである。チャングムの誓いのトックおじさんの実家は現代の韓国の家の様子で、彼が存在した15世紀には有り得なかったのである。
その頃、日本ではどんな貧しい(例えば江戸のスラムであった裏店や裏長屋であっても)人でも毎日銭湯に通ってトイレで用を足したのである。外でキジ打ち(野グソ)はしなかったのである。
イザベラ・バートは当時のソウルの状況をこう語っている。(以下引用)。


城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから!都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められてい る。悪臭ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわっ たり、ひなたでまばたきしたりしている。
(以上、講談社学術文庫『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード著より一部引用)


ちなみに、現在のソウルには、李氏朝鮮時代の貴族(興宣大院君)の家敷で、第26代王の高宗も幼少時に住んでいた、雲峴宮(ウニョングン)という屋敷が 残っているが、日本の江戸時代の東北の庄屋の方がもっと立派な家に住んでいたと思えるほど、素朴(粗末)な造りである。他は推して知るべしであろう。

■チャングムは色のついた服を着ていなかった
嘘のような本当の話であるが、日本が韓国を併合して侵略した後に、染料のアニリンを持ち込むまで朝鮮の人々の服には“色”がついていなかった。染色という技術が19世紀まで朝鮮半島にはなかったのである。(以下引用)


洗濯物は天日にさらされて白くなり、また薄く糊づけされるが、その前に木の棒に巻いて「洗濯棒」で長時間たたくので、なんでもない白もめんがくたびれた白 い繻子のようになつやを帯び、まぶしいほどのその白さはマルコによる福音書の変容の章にある衣服についてのことば、「それはこの世の布さらしではできない ほどの白さであった」をいつも私に思い出させる。
(以上、講談社学術文庫『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード著より一部引用)


また、民族服であるチマチョゴリは既婚女性の間ではトップレスであったのである(正確に言うと上着と下着の間から胸が出ているというものですが。下記サイト参照)。

http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/c394cbbf28ae728408d5a1a09cdc10a5

即ち、チャングムは結婚してからは白いチマチョゴリをトップレスで着こなしていた可能性が高いのである。歴史考証を正確に行うと現在の韓流歴史ドラマはまったく違う映像になる

■お金(貨幣)のない国 -通商も貨幣経済も発達しなかった
当時の朝鮮半島全般に言えることであるが、馬車や荷車が全くなかったことによって、集落と集落、都市と都市を結ぶ道路が未発達(ということは道路がない) な状態だったため、大規模な物資の移動もなく、通商は僅かに水運(それも一部の限定されたものであった)によるものがあるだけで、とても通商と呼べるよう なものはなかった。
従って、物資の移動ができないので市が立つこともなく、また、立ってもそれは限定された小商い程度のものであった。
市場ができないということは通貨も流通しないということで、当時の朝鮮半島では日本のように金貨や銀貨のような国家が鋳造したきちんとした貨幣は存在せず、民間には実質、話と決済権の低い穴あき銭しかなかった。
これは、現在に例えて言うと、一万円札も500円玉も存在せず、1円玉のみで買い物をするようなもので、とても貨幣では買い物ができなかったのである。
イザベラ・バードは、この価値のない穴あき銭を100Kg近く持ってゆかないと1,2週間の旅ができない状況であった。もちろん、外国の通貨も流通していないので、イザベラ・バートの旅した明治時代の朝鮮は世界でも珍しい貨幣文化のない国だったのである。
ゆえに、チャングムの誓いなどで市場でお金を出して筆を買ったり、酒を買ったりすることは有り得なかったのである。(以下引用)


通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行する者を例外なく悩ませ、旅程を大きく左右した。日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。銀行や両替商は 旅行先のどこにも一軒としてなく、しかも受け取ってもらえる貨幣は、当時公称3200枚で1ドルに相当する穴あき銭以外になかった。この貨幣は数百枚単位 でなわに通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なければないでまたそれも厄介なのである。100円分の穴あき銭を運ぶには6人の男か朝鮮馬一頭が いる。たった10ポンドなのにである!
(以上、講談社学術文庫『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード著より一部引用)


■朝鮮の焼肉はまずかった
韓国と言えば焼肉が有名で「韓国に行く=焼肉を食べに行く」という人も多いと思う。(骨付き)カルビ、ロース、ミノ、レバー、等々、焼肉は今や韓国料理を代表する伝統料理と考えられている。
韓国映画に『食客』という韓国版美味しんぼのようなグルメ対決の映画がある。その韓国No.1のシェフを決めるグルメ・バトルの中で、日本の料理人の対決ではありえない科目があった。それは牛の解体である。
規程時間内に吊るされた一頭の牛をサーロインやヒレやハラミのような各部位に切り分ける腕を競うのである。日本や欧米ではこれは食肉業者の仕事であって、 料理人の仕事ではない。牛肉はそのくらい現代の韓国料理の中で重要な位置を占める食材なのである。ところが、明治の中頃までは(ということは数百年間)朝 鮮半島の肉は不味くて味オンチの英国人でさえ食べられなかったようである。その理由は、当時の韓国の独自の屠殺法によるものであった。(以下引用)


哀れな犬は大量にいる。また大量の血のしたたる肉片がひなたで黒ずんでいくのには完全に胸が悪くなった。屠殺方法のちがいが肉をこうさせてしまうので、ソ ウルでもほかの町でも外国人は日本人の肉屋で買わざるをえない。朝鮮人は牛の喉を切り、開いた切り口に栓をしてしまう。そうしておいてから手斧を取り、牛 の尻を死ぬまでなぐる。これには一時間ほどかかり、牛は意識を失うまで恐怖と苦痛にさいなまれる。このやり方だと放血はほんの少量で、牛肉には血液がその まま残り、その結果重量が減らないので売り手には得というわけである。
(中略)
わらぶき小屋では低い台や地面に敷いたむしろの上に、ありとあらゆる朝鮮の必需品と贅沢品がならんでいる。そのなかにはイギリス製の雑貨もかなりあれば、 血を大量に含んだ牛の干し肉もある。朝鮮で屠殺した肉を見れば、だれだって菜食主義者にならざるをえない。ヤギの屠殺方法は小さな川で引っ張りまわすとい うもので、この方法だと癖のあるにおいが消えると言われている。犬は首になわをかけて振りまわし、そのあとで血を抜く。朝鮮人の手にかかった仔牛の運命に ついては前に述べた。暑い日ざしの下ではせわしなくて汚く、哀れで不愉快な光景だった。
(以上、講談社学術文庫『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード著より一部引用)


日本にも似たような食べ物がある。房州館山名物の“くじらのたれ”である。これは血のついた鯨の生肉を干したもので見た目は真っ黒である。これを炙って一 味&マヨネーズなんかつけて食べる酒のつまみである。当時の朝鮮半島の肉はこのように真っ黒ですさまじいものであったらしい。とても我々が想像するような 焼肉の材料にはならなかったのである。それゆえ、チャングムもそういう肉を調理していた可能性が高い。

■番外編
朝鮮半島は日本の侵略によって植民地化を辿ったわけであるが、社会制度的にみると日本の統治によって近代化されたされた面もかなりある。イザベラおばさん の記述は日本が侵略する前と後で朝鮮半島の社会がどのように変容したかをつぶさに書いている。特に李朝の完全なる儒教社会のなかで両班という貴族階級に支 配されて、500年以上続いていた奴隷のような生活(実際同じ民族なのに奴隷はかなりいたのですが)朝鮮半島の庶民の悲惨な生活は今日ほとんど伝えられて いない。
裁判所や銀行や学校をつくり、階級制度を廃止した近代化を推進したのが伊藤博文でそれを暗殺したのが現在の韓国の英雄安重根である。実は伊藤博文は朝鮮併合には反対で、朝鮮を近代化させた後独立させるつもりでいたのである。
本当に暗殺されるべき奸物は日本公使・三浦悟楼で、陸軍出身のこの三浦悟楼は山県有朋の密名をおびて(歴史上は朝鮮国王高宗の実父で摂政だった興宣大院君 の謀略といわれていますが、筆者は黒幕は山県有朋だと睨んでいます)高宗の后で親露政策を推進していた閔妃を暗殺したのである。三浦悟楼は暴漢を率いて宮 廷の女官を殺しまくった。れっきとした帝国陸軍軍人が後宮に夜間押し入って、女子供を殺戮しまくったのである。恥も外聞もない。単なる強盗以下である。
イザベラおばさんの朝鮮紀行にはこの晩の様子が詳細に報告されている。(以下引用)


事件そのものは一時間ほどのできごとだった。皇太子は自分の母親が剣を持った日本人に追いかけられて廊下を駆け逃げるのを見た。また、暗殺団は王妃の住ま いに殺到した。王女は上の階に数人の官女といるところを見つかり、髪をつかまれて切りつけられ、なぐられたあと階下へ突き落とされた。王妃が服を着て逃げだそうとしていたところをみると、宮内大臣李耕植が危急を知らせたものらしい。暗殺団が部屋に入ると、宮内大臣は両手を広げてうしろにいる王妃をかばい守 ろうとしたが、それは相手にだれが王妃かを教える結果となってしまった。両手を切り落とされさらに傷を負いながらも、彼は身を引きずるようにベランダから国王のもとへ行き、そこで失血死した。
暗殺団から逃げだした王妃は追いつかれてよろめき、絶命したかのように倒れた。が、ある報告書は、そこでやや回復し、溺愛する皇太子の安否を尋ねたところ へ日本人が飛びかかり、繰り返し胸に剣を突き刺したとしている。そのとき、前にわたしも会ったことのある乳母が王妃に覆いかぶさり、そのため顔が見えな かったとはいえ、王妃が絶命していたかどうかははなはだ疑問である。それなのに日本人暴徒は王妃を板の上に載せ、絹のふとんをかけて隣の鹿園にある松林へ と運んだ。そして王妃のまわりに粗朶を置き、灯油をそそいで焼いた。あとには小さな骨が数片しか残らなかった。
このように聡明で野心家で魅力にあふれ、愛すべきところの多かった朝鮮王妃は、近しい一国の公使から卑劣な行為をそそのかされた外国人暗殺団の手により、 四四歳で命を落としてしまったのである。王妃の生前、井上伯は「王妃ほど明敏で聡明な人は朝鮮にはまれである。敵を懐柔し従者の信頼を得るすべにおいては王妃にかなう者はいない」とさまざまな理由でうなずけることを述べている。
(以上、講談社学術文庫『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード著より一部引用)


この事件を乙未(いつみ)事変というが三浦悟楼はこののち広島で裁判にかけられたが証拠不十分で不起訴となり、子爵の身分のまま、日本では学習院院長、貴族院議員、枢密院顧問官を歴任し、今日の日韓の反目の背景を作ったのは、このとんでもない卑劣な人間が原因だったのである。乃木希典といい三浦悟楼といい、もともと陸軍で不始末をしでかした人間達は学習院の院長をやってほとぼりをさましたらしい。
そしてその背後にいたのが日本を太平洋戦争に導く遠因となった陸軍の重鎮、山県有朋である。三浦悟楼は1846年11月15日に山口の萩で生まれ、藩校明倫館に学び、奇兵隊入隊。戊辰戦争に参加した長州の陸軍軍人であった。

こういう人間達が悪事を働いたことを我々日本人は歴史の事実として知らなくてはならない。朝鮮半島の侵略や征韓論についてもう少し教育する必要があると 思っている。逆にこれ以降に統治を行った伊藤博文は台湾における後藤新平のように善政をしいて独立と近代化を進めようとしていたのである。このことは現在でも半島の人々には理解されていない。
残念なことである。