【第134回】恋愛および結婚における免許制度について

以下は2080年の週刊東洋エコノミスト誌に載っていた記事の一部である。

●恋愛結婚の自由よ、再び
 -東京六本木で若者数万人が街頭デモ行進を行う

2050年に施行された恋愛結婚免許法によって、恋愛の自由、婚姻の権利を奪われた免許不所持の若者が、交付期限の延長もしくは撤廃に向けて抗議すべく人口管理庁に向かってデモ行進を行った。中には投石などの行動に出る若者も多く、鎮圧に向かった機動隊と激しく衝突となった。このデモで器物損壊、公務執行妨害により320人が逮捕された。

[解説]
恋愛結婚免許法とは、2050年に幸福党政権によって制定された法律である。2010年代頃までの日本の殺人事件の件数は1200~1300件で20年余り横ばいの状態であったが、1973年の最高裁による尊属殺人違憲判決以来、親の虐待による乳幼児の死亡、あるいは親子間での尊属殺人が殺人犯全体の半数を占めるようになっていた。この傾向はその後虐待児童が成人となって再び虐待を繰り返す悪循環を生み出し、2040年代には日本の年間殺人件数は10万人の大台を突破し、うち6割が乳幼児虐待による殺人、3割が子供による親への報復殺人となっている。政府はこの事態を重くみて、“親になる資格のない人間”を公的基準によって審査し、その人間に対して恋愛と婚姻を制限する法案を採択し、同時に憲法も国民投票の大多数(4/5)の賛成によって改憲し、その施行に踏み切った。

これまでの経緯をざっと振り返ってみよう。


2050年1月 憲法改正のための国民投票
2050年4月 人口管理庁の設立
        人口管理庁は恋愛結婚適格者を審査するために設けられた監督機関
        で、失業や破産、人格障害、犯罪、大病など、健全な恋愛および結婚
        が成立しないと思われる社会的要素を関係各者から報告を受けて、恋
        愛および結婚免許証を交付する監督官庁である。恋愛および結婚免許
        証を不所持の国民は婚姻届を不受理するとともに、産まれた子供は戸
        籍を授与されず義務教育を受けられない罰則が適用された
2051年1月 恋愛および結婚制限法成立、同時に個人情報保護法撤廃
        これによって恋愛結婚適格者証を持たない者は適格になるまでの間、
        政府保健所による避妊プログラムが適用され、30歳になっても不適格
        な場合は強制手術によって去勢されることとなった
2051年4月 恋愛結婚不適格者 職業訓練法成立
        職業訓練法は不適格者に対して職業訓練の実施や就学支援、学費の
        補助を行い、責任ある社会人を養成するための支援プログラムである。
        これによって年間2万人余りの不就学児および文盲者の高等教育が可
        能となった。
2060年1月 恋愛結婚免許法によって出生率が2050年の平均2.5人をピークに下が
        り続け、2060年には史上最低を記録した2005年の1.26を下回る、1.15
        に減少した。反対に、殺人事件は乳幼児殺人件数が施行前の1/10の
        6000人にまで減少している。



筆者は、物理的な年齢が20歳を過ぎたらもれなく1票の参政権が与えられたり、男子であれば18歳、女子であれば16歳になればもれなく婚姻が可能で誰でも子供を産んでよいという制度に常々疑問を持っている。それらは物理的に与えられる有資格で、万人に平等であるといえば聞こえはよいが、何の審査も検証もない野放しな制度だからである。
選挙権などは一歩間違えば簡単にナチスやファシズムを成立させることができる、社会資格の“凶器”であるにもかかわらず、その資質は何も審査されていない。
同様に、親になる資質や環境がまったくないにもかかわらず子作りは野放し状態である。婚姻外妊娠も日常茶飯事である。

これは筆者の知人の歯科医から聞いた実話である。
ある時、DV(家庭内暴力)を受けた、顔は血だらけ、歯は折れた状態の18歳のギャル風の女性が乳幼児(0歳)を抱えて診察に来た。その母親は夫に殴られて着のみ着のまま出てきたので裸足であったそうである。当然のことながら保険証も現金も持っていなかった。しかしその歯医者では血だらけのギャルを人道上見放すわけにもゆかず、仕方がないので診察したのだが、その口の中を見てビックリ仰天したのである。その金髪ギャル母は、歯の境目がなくなるくらい歯垢がびっしりたまっていてスッポンの歯のように歯が1枚になっていたのである。おそらく相当長い間(何年も)歯を磨いたことのない歯で、折れた歯を治療する前にそのこびりついた歯垢を除去するのが大作業だったそうである。この母親には後日談があり、案の定、治療費は踏み倒されたそうで、以来一度も来なかったということである。母親が何年も歯を磨いていないということはその赤ん坊はいまだに歯を磨いていないはずである(この話は4年前くらいに聞いたので生きていれば幼稚園児のはずですがいまだに歯を磨いていないかもしれない)。

また、これは別の公立の大病院の医師に聞いた話だが、その病院では年間5000万以上も治療代が踏み倒されるそうである。昔の(つい20、30年前)日本人では考えられなかった現象である。

実はこの傾向は学校の給食費にも出ていて、給食費の未納は2006年の文科省の調査では国公立の小学校で40.4%、中学校では51.2%にのぼり、未納額の合計は22億2963万円と報じている。
筆者の知人の高校教師は足立区のあまり偏差値の高くない高校で数学を教えているが、生徒の6割が授業料を滞納しているそうである。ちなみに、公立高校の授業料は年間約12万円、1ヵ月1万円である。
先生曰く、「僕等が毎日一生懸命授業をやる授業料が月に1万円で、その1万円でさえ満足に支払われないんです。そのくせ、自分達の携帯代に月に2万も3万も支払っているのが実態なんです。自分達の授業が女子高生の携帯代より価値がないというのは実に情けない話です」と仰っていた。

西原理恵子の名著「この世でいちばん大事な「カネ」の話」の中に、この問題に対する直言がある(以下引用)。


みんなで外でご飯を食べたのに、自分だけ食事代を払わないで、知らん顔してる子もいる。払わないですむんなら、払わないに越したことがないという態度で、自分からは絶対に出そうとしない。でも、財布の中に払えるだけのお金がないわけじゃないのよ。あれっていったい、何だろうね?
そういう子を見ていると、近ごろの「給食費を支払わない親」というのも、根っこは同じじゃないかと思う。お金はあるんだけど、払いたくない。「それの何が悪いって言うの?」って態度だよね、あれもね。
大人がそいういう態度だと、子どもだって勘違いしちゃう。「損しない」ってことがいちばん大事みたいに思っちゃう。
「自分だけお金を払わない」ってことに何の疑問も感じない子どもには、そういう大人の不健全なお金に対する態度がストレートに反映されているんじゃないか。

(中略)

わたしは思うんだけど、「損したくない」ってことばかり考えていると、人って、ずるくなるんだよ。少しでも人より得しようって思うから「だったら、ズルしちゃえ」っていう気持ちが出てきてしまう。ささいなきかっけで、それがどんどん卑しい行為に結びついてしまう。
きっかけはささいでも、「このくらい、べつにたいしたことはないよな」っていう、自分にだけ都合のいい気持ちが、あとあとの大きな分かれ道になってくる。
人間、誰だってちょっとでも「得をしたい」って思うものでしょ。だけど、うかうかと一線を越えちゃうと、ダムに空いた小さな穴みたいに、そこから金銭感覚って崩れていってしまうものなんだよ。
だから、そうならないためにも、日常生活の中のひとつひとつの習慣が、本当にとても大事になってくる、というわけ。
たとえば友だちから、百円借りっぱなしでも、「大した金額じゃないから、べつに今すぐ返さなくてもいいか」って思う子がいるかもしれない。
でも、子どもにとっての百円って、月のおこづかいの何分の一になる?もしかしたら年収一千万円くらいの大人が、誰かに十万円を持ち逃げされた、っていうのと変わらないんじゃない?
そう考えると「たかが百円くらい、いいじゃん」とは言えないよね。
モノを借りて返さなかったり、お金を払わないようにしたからって、それで「得した」なんてことは絶対にない。あとで絶対に「マイナス」になるものなんだよ。

(以上、西原理恵子著「この世でいちばん大事な「カネ」の話」より一部引用



貧すれば鈍する。
恒産なくして恒心なし、なのであろうか?
貧富によって左右されることの少なかった日本人の倫理観が米国的にあるいは中国的に劣化しているのであろうか?
富の偏在が貧困を生み、貧困が虐待を生み、虐待がまた貧困を再生成し、それを繰り返し続け永遠にカーストを越えることなく循環してゆく。それも1つの縁起であり因果なのだろうか。貧困は連鎖するのである。

昨日も今日も日本の殺人事件は親子間か身内で起こっている(これは殺人とはっきり報道しないマスコミにも大いに問題がある。例えば、無理心中というのは強制殺人と名前を変えるべきではないだろうか)。いつもそういうニュースばかり見続けて慣れっこになるものなのだが、その痛ましさはいつも同じように消えない。今も日本のどこかで母親に殴られて生死をさまよう子供がいるのである。何かの社会のセーフティーネット、親になれる資格を公的に認定するような制度でもないと家庭という密室の中で虐待される子供という弱者を救う道はないのではないだろうか?
運転にも免許があるのだから選挙や結婚にも免許があってもよいのではないだろうかと考える今日この頃である。