【第133回】日本料理の美学 その1

最近、筆者は酒の嗜好が大きく変化して、ワイン派から日本酒派へ大きくシフトしている。これは単にオジサンになったからではない。日本酒は二日酔いしないということが判ったからである。正確に言うと、翌日に後頭部がズキズキと痛むような二日酔いをしない(即ち、防腐剤が入っていない)日本酒を発見したので、平日でも日本酒を飲むようになったのである。
ちなみに、二日酔いしない日本酒とは銘柄はあまり関係なく、生酒もしくは生詰(生詰は1度だけ火入れをした要冷蔵の酒)の無濾過という、加水もしていない純米酒の原酒である。要するに冷蔵庫に入っている日本酒である。もともと日本酒は2回目に火入れするときに二日酔いの不純物が発生するが、常温で劣化しないために何らかの処理がほどこされている“かもしれない”と筆者の個人的人体実験でわかっていたのだが、無濾過生詰純米酒は飲み過ぎても翌日に後頭部がズキズキ痛くならないことを発見して、普通の日でも日本酒を飲むようになったのである。
日本酒を飲むようになると、食べるものも変化し、ワインの時のイタリアンとかフレンチから和食に変わり、中でも特に日本料理を食べる機会が多くなったのである。

これまでの筆者コラムでは、鮨やフレンチなど様々な料理を語ってきたが、日本料理は奥が深すぎてとても数ページでは語れないことと、魯山人のようなコメントをたれることもできないので書けなかったが、そろそろ食べ物ネタを書いて欲しいというリクエストにお応えして、今回は日本料理談議その1を紹介したいと思う。

外国人に“日本料理の素晴らしさ”を聞かれたら、皆さんは何と答えるだろうか?身体にいいとか、安全であるとか、ヘルシーであるとか、刺身のような新鮮な素材の料理であるとか、様々な意見があると思う。
昔、ポール・ボキューズだったか、アラン・シャペルだったかは忘れたが、「フランス料理とは何ですか?」との問いに、「フランス人がフランスで採れた材料を使ってフランスで作った料理である」と答えたことがあった。
その伝でいくと、「日本人が日本で採れた材料を使って日本で作った料理である」と説明できるかもしれない。それはそれで正解なのかもしれないが、説明としては、屁理屈のような判ったような煙に巻かれたような釈然としない説明である。
日本料理の味付けを説明するのに、“さしすせそ”の順で調味料を使うという説明がよくある。さ(砂糖)、し(塩)、す(酢)、せ(醤油)、そ(味噌)のことであるが、この他にも、日本酒(これはかなり多用します)、みりん(これもよく使います)、鰹節、わさび、生姜、昆布、山椒、ネギ、シソ、唐辛子(鷹の爪)などが基本的な調味料である。これはフレンチとちがって美味しければ何でも使うということはなく、伝統に根ざした調味料で調理しているので、江戸前鮨と同じで、レギュレーションが明快である。決してナンプラーとかパクチーとかワインビネガーとかを使ったりはしない。

日本料理はフレンチや中華とはそもそも味付けの設計思想が全く異なる。フレンチと中華が“足し算”で味をつけにいく料理だとすれば、和食(日本料理)は基本的には“引き算”で味を引き出す料理である。引き算とはどういうことかと言えば、例えば、スイカを食べるときに塩をあてるという作法があるが、これは、スイカをそのまま食べるよりも少し塩をあてた方が甘味がより際立つからである。これが引き算の設計思想である。お椀に出汁(だし)を引くのもこれと同じ技法で、椀ダネに出汁を張ることによって、椀ダネの味をより鮮明に引き出すことができるのである。
味を付けにいくのではなく、素材の味を殺さずに引き出す。これは新鮮で美味な素材に恵まれた日本料理の大きな特長である。
かたや、フレンチの足し算はいかがなものかと言えば、フレンチはデミグラスソース、ペシャメルソース、アメリケーヌソースのような味をつけにいくソースを七変万化することによって、同じように焼いた肉をいろいろな味で食べさせる調理法である(ただしこの“焼いた”技法が多彩であるのが特徴ですが)。
また、中華料理はどうかと言えば、更に強烈な足し算の料理法で、例えばフカヒレやツバメの巣などは原材料の味が何だったのかさっぱり判らないほど味を付けにいく調理法である。
日本料理の調理法はそれゆえに世界中のどの料理にも似ていないということが言える。

日本料理のもう一つの大きな特長は、一番重要な素材である“水“にある。四谷にある津の守坂「よねやま」主人の米山さんは、「日本料理とは水を食べる料理である」と常々言っている。
この真意は何かと言うと、たとえば単純に柳で刺身をひくという調理に表れている(これは“切る”という行為ですが、日本料理における“切る”というのは立派な調理法なのです。例:まながつをを焼くときの1ミリ幅の隠し包丁とか)。素人の文化包丁で刺身をひいたときと、プロの柳刃で刺身をひいたときでは切り口が全く異なるのである。よくスーパーのパック詰の刺身を買うと、下のシートに血が染み出していたりするが、切れない包丁で刺身をひくと切り口が荒れてそこから身の水分がしみ出てしまうのである。それゆえ、その水分をごまかすために刺身にはツマが必要になるのである。日本料理屋では刺身を切りつけて身をそのまま盛り付け、刺身の下には何も敷かない。切り口が鮮やかなので身の水分が全くしみ出さないのである。魚が本来持っている水分を損なうことなく口にできるのである。この思想は日本料理にしかない考え方である。水にも蔬菜にも魚にも恵まれている日本という風土で、その旬のいい素材を活かしきって食すということがその根底にはある。

-お茶と日本料理
茶道が日本料理に与えた影響は極めて大きい。今日の日本料理の基礎は千利休が作ったと言ってもよいと思う。利休は客人をもてなすということを総合的にプロデュースしたという点において多大な影響をもたらした。嵐山吉兆のような超高級料理亭になると、建物から庭から調度品に至るまでの空間そのものが料理の一部としてプロデュースされているが、そこまで守備範囲を広げると料理というジャンルの話しではなくなってしまうので、目の前に出てくる膳の範囲内で言及するならば、“季節感と器”という重要な要素が茶道から日本料理にもたらされたものではないかと筆者は考えている。
日本は春夏秋冬の四季に恵まれていて、その季節ごとに旬の食材があり、それらを季節を意識した器に盛り付けることによって料理に小空間の美を作り上げるのである。季節感をふんだんに取り入れる“目で見て美味しい”という考え方は日本料理の大きな特長である。

ミシュランの評価は“料理の味だけを絶対的に見て評価する”とうそぶいているが、筆者は日本料理を評価する上でそんなことが本当に可能なのだろうかと疑問に思っている。というのは、日本料理の質の70~80%は素材の質で決まるからである。いい素材は値段と比例するので、コース4万円の日本料理とコース1万円の日本料理を同じ土俵で評価することは無謀である。ボクシングの試合に例えればヘビー級とモスキート級が戦うようなものだからだ(もし1万円の日本料理が4万円の日本料理よりも高く評価されたならば、それはそれで2階級制覇のようなものだが)。
また、季節感と器も重要な料理の要素なので、それを全く無視して味だけをみるというのも嘘っぱちに近い。というより邪道である。日本料理というジャンルを全く理解していないと言える。そういう人は真冬に鱧落としを出されても、オクラのすり流しを出されても何とも思わないで評価するに違いない。楽も染付けも判らず、もしかするとウェッジウッドや100円ショップの皿で出されても評価がぶれないとすれば、これは単なる阿呆集団であろう。ミシュランと言えば、またも懲りずに大阪・京都版を出すらしい(筆者は絶対に購入せんぞと心に固く決めておりますが)。

日本料理は器にこだわる。器には、漆器、陶器、磁器など、日本、中国、朝鮮で作られたありとあらゆる種類の器を使う。高級な料亭などに行くと、桃山時代の器を使っていたりする場合もあるので、気を利かして器を重ねたりしては絶対にいけない。日本料理の職人は器道楽の人が多く、稼いだ収入を器に注ぎ込む人も珍しくない。日本料理屋で使用される器で最もポピュラー(?)なのが、北大路魯山人作の器である。北大路魯山人は美味しんぼの海原雄山のモデルとなった人物で、日本のガストロノーム(美食家)であり、書家であり、料理人であり、陶芸家でもあった。彼は晩年は鎌倉に窯を開き、ひたすら作陶したのであった。
器にもいろいろあって産地から言えば、茶道具の御三家(一楽、二萩、三唐津)や、美濃、備前、伊賀、瀬戸、京焼、有田、九谷などがあり、そのそれぞれに、陶器ならば、織部、志野、黄瀬戸、瀬戸黒、ねずみ志野、灰釉、焼締、緋だすき、粉引、刷毛目、飛び鉋などの技法があり、滋器には、青磁、白磁、天目、赤絵、染付、などの種類がある。この他に漆器と、それに装飾を施した蒔絵などの器があり、夏用の器として切子(江戸、薩摩)や、ガラスの器(バカラが使用されることもあります)もよく使われる。
これらを理解するにはお茶を習って器に親しむのが一番手っ取り早いが、お茶は体得するのに一生かかるためキリがないので、その辺の本屋に行って図鑑を買うか、近所の器屋に行って、ひやかしで見せてもらうかしか学ぶ手段はない。
日本料理は料理本体のほかにこれだけの教養が必要なのである。それゆえ、スタイルや味だけで日本料理を評価することはできない。

日本料理はルーツを辿れば平安時代の四条流や室町時代の本膳料理くらいまで遡るのかもしれないが、原型は利休の茶懐石らしい。懐石というのは禅の雲水が夜中に空腹を紛らわすために温石(おんじゃく)という石を懐に忍ばせたという故事に由来するもので、禅の精進料理であったのだが、利休が茶懐石として独自に発達させたものである。
利休の懐石は一汁三菜で、最初に飯、汁、向付けが出され(一の膳/本膳)、その後に、煮物、焼き物、が基本パターンでそのほかに鉢肴(はちざかな)、強肴(しいざかな)、小吸物、八寸が出されて最後に食事と香の物が出てくる。
茶懐石は以上のような献立になるが、通常の日本料理は会席料理という形式で宴席で酒を飲みながら食べる料理である。コースの順序は店によってパターンが異なる。

 ・先付、煮物椀(椀物)、お造り(向付)、焼き物、[箸休め]、八寸、
  炊き合わせ(煮物)、[酢の物(強肴)]、ご飯、果物
 ・先付、向付、汁、八寸、酢の物、炊き合わせ、焼物、煮物椀
 ・先付、向付、椀物、口取、炊き合わせ、焼物、揚物、酢の物、食事、果物

このように若干パターンは異なってもポイントは「先付」にある。ここですべてが決まると言っても過言ではない。先付がまったくダメだと、あとのレベルは推して知るべしで、旅館などでこのパターンで出されるとあとは難行苦行となってしまうのである。先付はすべてを見通す重要な一品なのである。先付がダメでそこからどんどん料理がよくなるということはまず絶対にない。
次にくるのは向付(お造り)である。日本料理はひたすら鯛にこだわる。しかもそこらの鯛ではなく、瀬戸内(特に明石や淡路)の鯛を珍重する。筆者の知っている日本料理屋では月の魚の仕入れの半分が鯛の値段だというところもある。これは鮨屋の仕入れの60%がマグロであるというこだわりと良く似ている。そして、この鯛の刺身のひき方と器が次のポイントとなる。鯛の身質のみずみずしさを崩さないように切らなくてはならない。前述のようにきちんとした日本料理屋では刺身にツマは使わない。切り口が鮮やかなので水分が染み出すことがないからである。彩りで付けることはあっても水気をごまかすために添えるのではない。そこがスーパーの刺身とは全く異なるポイントである。器に直接モリモリ盛り付けても水気が染み出したりは決してしないのである。歴史と伝統も関係あるのだろうが、日本料理にとってレッドスナッパー鯛は特別な魚なのである。これは鮨屋における本マグロと同じ位置付けかもしれない。
椀は一汁三菜の汁であるが、これも日本料理のハイライトの一つである。水を食べる料理の真骨頂がここにある。本物の出汁をひくためには、ある程度の人数が必要になるので筆者の好きなカウンター割烹では出せないものもあるが、春から夏にかけて、そら豆、枝豆、オクラのように同じ緑色でも変化するすり流しや、冬のかぶら蒸し、秋の菊花椀、基本的だが忘れられない早春の若竹椀(ワカメと筍)、豚の背脂を使った沢煮椀、夏の鱧椀や、真冬の丸椀(スッポン)蛤や鯛の潮汁など、季節毎に旬の素材を取り入れて供される。

日本料理には定番の仕事(調理法パターン)があって、これを“通り仕事”と言うらしい(紀尾井町「山ぐち」の山口さん談)。日本料理には京都の職人の技がよく紹介されるが、もともと京都は新鮮な魚が手に入らず乾物や干物や鱧などの手間のかかる素材を技術でカバーして調理したためにいろいろな職人仕事や調理技法がが発達したのである(棒たらや身欠き鰊のような素材です。鰹節や昆布もそうです。また普通に調理できない棍棒のような堀川牛蒡やまずい鹿ケ谷かぼちゃのような素材も職人仕事ではなくては美味しくたべられません)。

春夏秋冬にわたって食材が変化し、器が入れ替わり、しつらえが変わる。日本料理はその季節の遷り変わりを折敷の中に再現して楽しむ。時には季節を先取りして楽しむ。そこに日本の美学が存在するのである。決してミシュラン調査員のように“味”だけで評価するなどという、ごう慢なことをしてはいけないと思うのである。文化の判らない外国人ならともかく日本人がそういうことをしてはいけないのではないだろうか。年に1、2回しか訪問せずに100円ショップの器だか魯山人の器だかの区別もなく、季節感も全く無視して素材の知識もなく“味”だけで勝手に星をつける。こういう行為を文化破壊と呼ぶのではないだろうか。
そういう人々はたとえば鮎を焼くときに飾り塩を全く使わず尻尾を焦がさないように焼く職人仕事などわかるはずもない。伝統や基準のない、うまいまずいの評価は意味を成さないと思うのである。

皆さん、2,400円で日本の文化は手に入りませんよ。ここらで目を覚ましましょう。