【第130回】私的尾崎放哉回顧録 -心の写真

冒頭に断っておくが、筆者は俳句をひねらない。小説も書いたし、詩もたくさん創ったが、短歌や俳句の類(この分類を韻文と呼びます)は興味がなかった。
従って、俳句を鑑賞する眼力も怪しいものであるので、俳壇の方々に物申す心算は全くないということをあらかじめ断っておきたい。

学校の教科書で一応どの日本人も松尾芭蕉や小林一茶を習うので皆さんおなじみであろうと思うが、筆者が仏文科の不良学生だった頃は文学界に衝撃的な論陣が張られていた。それが当時京大の仏文教授だった桑原武夫教授の俳句第二芸術論である。
これは非常に衝撃的な論文で、和歌、短歌は別として、俳句などというものは芸術でも何でもなく、ただの駄文に過ぎないと主張した激しいものであった。 確かに、川柳と俳句は、5・7・5と文字が区切られていて、片方は滑稽で片方は芸術というのは何がどう違うのか判別不能のように思われる。
ちなみに、川柳はサラリーマン川柳が流行していて現在でも人気がある。

 ・「空気読め」それより部下の気持ち読め
 ・「今帰る」妻から返信「まだいいよ」

古くは、本家本元の柄井川柳の誹風柳多留の川柳が有名である。

 ・これ小判たった一晩ゐてくれろ
 ・役人の子はにぎにぎをよく覚え

同じ5・7・5で川柳と俳句はどのように違うのか、また、よい俳句とよくない俳句はどのように違うのか?桑原武夫が芸術ではないと言った俳句に何の芸術性があるのか?
本コラムではその疑問のすべてを尾崎放哉を通じて明らかにしてみたい。
著書の「第二芸術」より引用してみよう。
(以下引用)


第二芸術 -現代俳句について-
敗戦後の諸雑誌にも、戦前と同じように、現代名家の俳句が挿入されている。しかし、雑誌のカットなるものにかつて注目したことのない私は、同じように、最初までこれらのものを殆ど読んだことがなかった。一方私は、日本の明治以来の小説がつまらない理由の一つは、作家の思想的社会的無自覚にあって、そうした安易な創作態度の有力なモデルとして俳諧があるだろうことは、すでに書き、また話した(「人間」二月号。「新潮」九月号)。そして、文化講演に招かれた場 合などに、同じような趣意のことを話すと、他の点はとにかく、俳句については必ず反駁的質問があり、俳諧の勢力がいかに根づよいかを改めて痛感させられた。芭蕉以来の俳諧精神の見なおしは、これからの日本文化の問題を考えてゆく上に、不可欠である。そう考えつつも、私にはその余裕がなかった。
(中略)
雑誌を見るうちに、講演のときに受けた色々の質問、反駁のことも思い出され、私は試みに次のようなものを拵えてみた。手許にある材料のうちから現代の名家と思われる十人の俳人の作品を一句ずつ選び、それに無名あるいは半無名の人々の句を五つまぜ、いずれも作者名が消してある。こういうものを材料にして、例えばイギリスのリチャーズ(I.A.Richards文学言語研究の大家、ハーヴァード大学教授。1893-)の行ったような実験を試みたならば(Richards, Practical Criticism, a Study of Literary Judgement, London,1930)、いろいろ面白い結果が得られるだろうが、私はただとりあえず同僚や学生など数人のインテリにこれを示して意見をもとめたのみである。読者諸君もどうか、ここでしばらく立ちどまり、次の十五句をよく読んだ上で、一.優劣の順位をつけ、二.優劣にかかわらず、どれが名家の誰の作品であるか推測をこころみ、三.専門家の十句と普通人の五句との区別がつけられるかどうか考えてみていただきたい。

 1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら
 2 初蝶の吾を廻りていづこにか
 3 咳くとポクリッとベートヴェンひゞく朝
 4 粥腹のおぼつかなしや花の山
 5 夕浪の刻みそめたる夕涼し
 6 鯛敷やうねりの上の淡路島
 7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り
 8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく
 9 終戦の夜のあけしらむ天の川
 10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来
 11 腰立てし焦土の麦に南風荒き
 12 囀や風少しある峠道
 13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと
 14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
 15 柿干して今日の独り居雲もなし

読者諸君は、この選集を読んでどういう印象をうけられたか。平生俳句をたしなまず、また作句の経験の皆無な私は、これを前にして、中学生のころ枚方へ菊見につれて行かれたときの印象を思い出す。あんどん作り、懸崖づくり等々、各流それぞれ苦心はあったのだろうが、私は優劣をつける気も起らず、ただ退屈したばかりであった。ただ、これらの句を前にする場合は、芸術的感興をほとんど感じないのは菊の場合と同じだが、そのほかに一種の苛立たしさの起ってくるのを 禁じえない。それは、懸崖などというものを作る心理には一こう共感できぬにせよ、目の前にあるのはともかく菊であり、ひねこびてはいるが一個の「もの」であって、そのかぎりの安定感があったのに対して、これらの句のあるものは理解できず、従って私の心の中で一つのまとまった形をとらぬからである。3・7・ 10・11・13などは、私にはまず言葉として何のことかわからない。私の質問した数人のインテリもよくわからぬという。これらが大家(草田男・井泉水・たかし・亜浪・虚子)の作品だと知らなければ誰もこれを理解しようとする忍耐心が出ないのではなかろうか。
わかりやすいということが芸術品の価値を決定するものでは、もとよりないが、作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるというのでなければ芸術の意味はない。現代俳句の芸術としてのこうした弱点をはっきり示す事実は、現代俳人の作品の鑑賞あるいは解釈というような文章や書物が、俳人が自己の句を 説明したものをも含めて、はなはだ多く存在するという現象である。風俗や語法を異にする古い時代の作品についてなら、こういう手引きの必要も考えられぬことはないが、同じ時代に生きる同国人に対してこういうものが必要とされるということは、そして詩のパラフレーズという最も非芸術的な手段が取られていると いうことは、よほど奇妙なことといわねばなるまい。芸術品としての未完結性すなわち脆弱性を示すという以外に説明がつかない。
(中略)
次に、私と友人たちが、さきの十五句を前にして発見したことは、一句だけではその作者の優劣がわかりにくく、一流大家と素人との区別がつきかねるという事実である。「防風のここ迄砂に埋もれしと」という虚子の句が、ある鉄道の雑誌にのった「囀や風少しある峠道」や、「麦踏むやつめたき風の日のつゞく」より 優越しているとはどうしても考えられない。またこの二句は、私たちには「粥腹のおぼつかなしや花の山」などという草城の句よりは詩的に見える。真の近代芸術にはこういうことはないであろう。トルストイ全集と菊池寛全集とを読みくらべれば、この二作家の優劣はいよいよよくわかるが、両者の短篇を一つずつ比べ ても問題にはならぬのであろう。志賀直哉の作品はどれをとっても、同人雑誌で二、三年苦労した人の作品より優れている、などといったら志賀さんはむしろ立腹するだろう。私はロダンやブールデルの小品をパリでたくさん見たが、いかに小さいものでも帝展の特選などとははっきり違うのである。ところが俳句は一々 に俳人の名を添えておかぬと区別がつかない、という特色をもっている。もっとも「爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り」というような独善的な形式破壊をするものは井泉水以外になく、「咳くとポクリッとベートヴェンひゞく朝」などというもの欲しげな近代調は草田男以外に見られまいから、これらの作家はすぐ誰にも見分けがついたであろう。しかし、それは芸術的価値判断による区別とはいわれまい。現代俳句はまず署名を見て、それから作品を鑑賞するより他はないようである。
(中略)
そもそも俳句が、付合いの発句であることをやめて独立したところに、ジャンルとしての無理があったのであろうが、ともかく現代の俳句は、芸術作品自体(句一つ)ではその作者の地位を決定することが困難である。そこで芸術家の地位は芸術以外のところにおいて、つまり作者の俗世界における地位のごときものによって決められるの他はない。ところが他の芸術とちがい、俳句においては、世評が芸術的評価の上に成立しがたいのであるから、弟子の多少とか、その主宰する雑誌の発行部数とか、さらにその俳人の世間的勢力といったものに標準をおかざるを得なくなる。かくて俳壇においては、党派をつくることは必然の要請である。しかもその党派成立の目的が勢力にある以上、一党派の中で有力になれば分れて別派をつくるのは自然であり、かくて各地方に中天狗・小天狗が生じる。俳句雑誌は現在すでに三十数種あるという(「俳句研究」六月号)。芭蕉自身も党派を作ったが、ただ作品がよかったので彼を党人視する人が少ない(しかし其角、凡兆、越人などが晩年の芭蕉から離れたことは注意を要する)。以後、何々庵何世というようなことが流行したのも、この要請によるのである。たとえば虚子、亜浪という独立的芸術があるのではなく、むしろ「ホトトギス」の家元、「石楠」の総帥があるのである。
(中略)
私は現代俳句を「第二芸術」と呼んで、他と区別するがよいと思う。第二芸術たる限り、もはや何のむつかしい理屈もいらぬわけである。俳句はかつての第一芸術であった芭蕉にかえれなどといわずに、むしろ率直にその慰戯性を自覚し、宗因にこそかえるべきである。それが現状にも即した正直な道であろう-「古風当風中昔、上手は上手下手は下手、いづれを是と弁へず、好いた事して遊ぶにはしかじ、夢幻の戯言也」。
私のいいたいことは、これで尽きたが、ただ文化国家というようなことがいわれている以上、少し蛇足をつける必要があるように思う。すなわち、もし文化国家建設の叫びが本気であるのなら、その中身を考えねばならず、従ってこの第二芸術に対しても若干の封鎖が要請されるのではないかと思うのである。文化国家に おいて、芸術の尊重とその一般への普及の必要なることはいうまでもない。しかし、新しい文化は芸術中心的に構想されるべきではなく、また尊重普及されるべき芸術の芸術性の理解がまずなければならない。よき芸術が全国民に理解され鑑賞されることが理想ではあるが、日本の伝統的文明の全国民的性格(長谷川如是閑、「日本的性格」)というような、詭弁的表現に心をひかれてはなるまい。床屋の俳句あるいは川柳のごときものを芸術-いかに「低級」という形容詞を付しても-と認めてよいものであろうか。

(以上、「第二芸術」桑原武夫著/講談社 昭和58年 15P~31P -現代俳句について- より一部引用)



当時の俳壇はこの主張に沈黙を保った。ぐうの音も出なかったらしい。
これから紹介する尾崎放哉はこの論文の中で批判されている荻原井泉水の弟子で、自由律俳句と呼ばれている芭蕉以来の5・7・5のリズムを無視した現代の俳句を詠んだ人である。
筆者は桑原さんのいうことも一理あると思いつつ、この人は短歌(和歌)と俳句の本質的な違いを理解できなかったのだと思っている。確かに、仏文学のような立場から見れば、ランボーやヴェルレーヌを鑑賞して、短歌までは文学として理解できるが、俳句となると文字数や表現が短すぎて中途半端でとても文字を駆使した芸術性はないと判じたようである。

誰でも知っている有名な句に、「古池やかわず飛び込む水の音」というのがある。また、筆者が好きな、与謝蕪村の句の、「月天心 貧しき町を通りけり」や「春の海ひねもすのたりのたりかな」を読むと、一体この文字列に何の意味があるんだろう?と首をかしげる人が多いと思う。論理的思考から見れば何の意味もない駄文である。ここに人生や感情や感動はないと西洋的見地からは判定するのであろう。
実はこれは一種の“写真”なのである。俳句の本質は写真であり、写真のない時代に日本人は短い文字で写真を撮ったのである。

前述の桑原さんが意味がないと主張した句を“写真”という視点でとらえてみるとよく判ると思う。開高健の有名な言葉“一言半句”とはこうした瞬時、瞬間の言葉の使い方を指したものなのである。俳句に季語という決まりがあるのもこの映像性を保つルールとも言える。
俳句は素人でもプロでも一様に作れる。それはあたかもニコンのカメラを手にすれば素人でもプロでも同じような写真が撮れるというのと同じことなのである。このことが俳句を一層理解し難いものにしているのである。ところが同じニコンのカメラを手にとっても、土門拳と筆者では同じ写真は撮れない。心の風景が違うからである。
それ故、俳句を鑑賞する時には文字の意味を辿ってもあまり意味はないと筆者は考えている。写真から得た印象や解釈や感想は人それぞれだからである。

本題に戻ろう(これを難しい言葉で“閑話休題”と書いて、“それはさておき”と読みます、ホントです)。
大正時代に尾崎放哉という無茶苦茶な男がいた。ある意味、性格破綻者であり、物理的には酒乱で人生を喪った男である(酒乱で人生を喪うという意味では黒田清隆のようですが彼は殺人はしておりません)。

尾崎 放哉(おざき ほうさい、1885年(明治18年)1月20日 – 1926年(大正15年)4月7日)

1909年 東京帝国大学法科大学政治学科を卒業して、渋沢栄一の創業した東洋生命保険株式会社で10数年エリートサラリーマンとして出世街道を驀進していたが、新社長が来てそりが合わなくなって挫折してから、降格、退職。
1922年 新創設の朝鮮火災海上保険に支配人として朝鮮に赴任し、“京城が小生の死に場所としてやってきました”と意気込んだ割には、一年で退社を余儀なくされた。
原因は酒である。彼は生来の酒乱による失態や、事業の失敗による借金によって坂を転げるように零落し、最後は放浪の果て結核(このあいだ吉本の芸人が罹った病気で抗生物質が開発されていなかった当時は不治の病でした)に罹患し、晩年は東大時代からの友人の自由律俳句の荻原井泉水の紹介で瀬戸内海の小豆島の南郷庵という庵の寺男となって極貧と結核にまみれて42歳の生涯を閉じた俳人である。彼のほとんどの作品は、この小豆島での晩年の3年間の間に詠まれたもので、末期の目を通したその作風は鮮烈で異色である。
俳句を写真として鑑賞すると彼の俳句の鮮烈さがよくわかる。

 ・咳をしても一人
 ・線香が折れる音も立てない
 ・風吹く道のめくら
 ・底がぬけた杓で水を呑もうとした
 ・今日も夕陽となって座って居る

自由律俳句であるから5・7・5の区切りはない。季語もない。ただの短い文字列である。だが、ただの短い文字列でしか表現できない、一瞬の鮮烈がこの一句一句にはある。これらの優れた風景写真は方哉の心の内面まで切り取っている。方哉がニコンを手に取ると、こういう鮮烈な写真が取れるのである。伊藤園のお~いお茶のラベルに張ってある俳句と比べると、同じカメラで撮っても写真は同じにならないことがよくわかると思う。

尾崎方哉が近所の漁師夫婦に看取られて病死したのが、大正15年(1926年)4月。その70年後からあるミステリーがはじまる。
方哉は晩年のすべての作品を萩原井泉水に送っていた。
萩原井泉水は昭和51年(1976年)92歳の長寿をまっとうして永眠した。それから20年後の平成8年(1996年)、井泉水の遺族が彼の物置小屋を取り壊そうとしたときに麻紐でしっかりくくった数個の紙袋が発見された。方哉の遺稿である。死後70年以上も経てからの発見であった。

それらを包括した全作品が出版されたのは、2007年7月。それが岩波文庫の尾崎方哉句集である。晩年、方哉は病床にあって、実に月に200もの句を詠んでいたのである。
そのいくつかを紹介してみよう(80年ぶりに世に出たものもあります)。

 ・妻を叱りてぞ暑き陽に出で行く
 ・一日物云はず蝶の影さす
 ・掛取も来てくれぬ大晦日も独り
 ・笑ふ時の前歯がはえて来たは
 ・道を教へてくれる煙管から煙が出てゐる
 ・障子の穴から覗いて見ても留守である
 ・入れものが無い両手で受ける
 ・窓あけた笑ひ顔だ
 ・春の山のうしろから烟が出だした
 ・あかるいうちに風呂をもらいに行く海が光る
 ・物干しで一日躍つて居る浴衣
 ・死ぬ事を忘れ月の舟漕いで居る
 ・巡査のうしろから蜻蛉がついて行つた
 ・豆腐半丁水に浮かせたきりの台所
 ・爪切る音が薬瓶にあたつた
 ・灰の中の釘が曲つて出て来る
 ・茶わんがこわれた音が窓から逃げた
 ・おはぎを片寄らして児が提げて来た