【第129回】別冊お父さんのためのワイドショー講座 その2 -職業としての結婚

最近硬い話が多いのでここらでヨタ話を一席。
近頃、都で流行の言葉に“婚活”というのがある。就職活動になぞらえた結婚活動の略だそうだ。そのくらい今すぐ誰とでも(と言うのは言い過ぎかもしれませんが)結婚したい女性が多いのである(年代で言うと30歳±2くらいの世代)。
最近エビちゃん(市川海老蔵ではない蛯原友里である)やもえちゃん(これも押切もえである)の幸せオーラや幸せメイクのカリスマ性が失せてしまっているが、それは彼女達がそれほどの幸せオーラを発しながらも、いまだに結婚していない現実に失望してしまったからであると考える。エビちゃんメークでエビちゃんファッションを実践したのに誰も結婚を申し込んでくれなかった、それならば今度は受身ではなく攻めで行こうとアグレッシブに結婚を獲ち取るのが“婚活”である。
要するに、農耕型結婚から狩猟型結婚への移行である。
彼女達はそれほど切迫しているのである。結婚が売り手市場から買い手市場に大きく移行していることを示しているとも言えよう。

今を去ること70~80年前、日本が第二次世界大戦で敗戦するまでは男女に自由恋愛は許されていなかった。恋愛=スキャンダル=不道徳なのであった。
あの白洲次郎と白洲正子でさえお見合い結婚だったのである。自由恋愛などあり得なかったのである。
その頃の日本の社会には社会全体にお見合いシステムのような目に見えない完成された仕組みがあって、25歳前の女性にお見合いを持って来るお節介なおばさん(筆者はこれをやり手ババアと呼んでいたが)がどこにでもいて、世の大部分の未婚の女性は25歳までにもれなく結婚して、30歳までにもれなく2児の母になっていたのである。
その頃の女性は東京で一人暮らしをするのも許されなかったどころか、働きに出るのでさえ許されなかったのであった。
戦後暫く経って学生運動華やかなりし世代、戦後ベビーブーマー世代(これを現在では団塊の世代と呼びますが)が、戦前からの儒教的モラルを完全に破壊してしまった。即ち、結婚無用、処女不要、お見合い無用の同棲時代の到来である。これにより自由恋愛によって結婚するカップルが、お見合い派の数を凌駕し始めたのである。

この世代の夫婦は同時に家長制を否定し、“仲間みたいな夫婦” “友達みたいな親子”をキャッチフレーズに、子供には“人に迷惑をかけなければ何をやってもよい”と教育したのである(民主主義ですな)。人に迷惑をかけないというのは現象として、捉えにくくて抽象的で主観的で顕在化しない現象なので、“人に迷惑をかけなければ”はすぐに形骸化してしまって、下の句の“何をやってもよい”だけが解釈として残った。その結果、“何をやってもよい”子供は、ガングロ、援交、引きこもり、いじめ、フリーターとモンスター化していったのである。

そのモンスターのような団塊の世代の十数年後をゆく筆者の世代になっても女性の結婚観は大して変わらず、今では死語となった“クリスマスケーキ説”が当時の女性の頭の中に充満していた。“クリスマスケーキ説”とは、クリスマスケーキは23日までにたくさん売れ、24日にそこそこ売れ、25日にぼちぼち売れるが、26日以降は全く売れなくなるという代物である(当たり前ですが)。結婚もこれと同じという説なのである。すなわち、26歳を過ぎたら良い結婚相手がいなくなってしまうという末期的需要予測に基づいた結婚観である。

その頃の日本のビジネス社会には総合職と一般職(事務職)という区別があって、同じ大卒文系でも女性は一般職で男性は総合職というように振り分けが決まっていた。
一般職(事務職)というのは、いわゆる“職場の華”だとか“お茶くみ”や“お嫁さん候補”として扱われ、同期の総合職の男性と社内結婚して寿退社(これも現在では死語となりました)することを暗黙裡に義務付けられていた立場であった。
この風潮は1985年に始まって1997年に強化された男女雇用機会均等法によって事務職が廃止されて派遣社員にとって代わるようになるまで続いたのである。この一般職(事務職)の廃止によって働く女性は息を吹き返し、働きたくないお嫁に行きたい女性は息の根を止められることとなってしまったのである。高校、短大を出てもエリートがいそうな大企業に簡単に就職することが出来なくなってしまったからである。これではクリスマスケーキのスキームは完全に崩れてしまうのである。

バブルの崩壊や就職大氷河期も続き、4大卒の女性も正社員になれない時代が10年以上続いた今、派遣で10年エビちゃんオーラを出しながらがんばって来た結婚志願の女性はいよいよ行き詰まるのである。

婚活が始まった社会的背景はざっとこんな状況である。

では、方や男性の結婚事情はどうであろうか?

大昔、時は江戸時代、江戸の人口は家康開闢以来、男性と女性の人口不均衡が天保時代位まで続いていて、大体平均すると、男性2:女性1の比率で、江戸時代全期間を通じて男女比率の差は埋まらなかったのである。
それ故、結婚できない男性が数多く存在したので、江戸幕府は吉原や岡場所のような遊郭を公認したのである。落語で八っつぁんが“かかあと所帯を持つ”ということは、それ故、稀有なことであり、とてもラッキーな身分だったのである。その頃は所帯を持つ(即ち結婚する)ということが庶民の憧れだったわけである。明治~大正~昭和にかけては男性が独身でいると公務員の場合、出世に悪影響が出たり、周囲からは一人前でない、という批判を受けたりして肩身の狭い思いをした。元服=結婚のような概念が浸透していて、この頃の男性は社会から結婚を強要されていたと言える。また、女性の貞操概念も強く、気軽に交際することもできなかったのである。お見合い以外で女性と話をする機会のない男性は非常に多かったのである。

今でこそ、なぜ銀座に大枚をはたいてわざわざ女装した女性(銀座のメークは女性が女装したメークです)に会いに行かなくてはならないか、不思議に思う人が多いと思うが、あのビジネスモデルは、女性と普段話す機会のない紳士に擬似恋愛の場を提供するものだったのである。そもそも銀座のクラブ嬢の夜会巻きという世にも珍しいヘアスタイルは、明治・大正時代の山手婦人の髪型であり、実際にそうした深窓の令嬢と話したり交際したり出来ないので水商売にそれを移植したものだったのである。この頃の女性は貞淑であり近寄り難い存在で希少価値があった。それが戦後70年経過し、男女雇用機会均等法が施行され、結婚するまで深窓にいるような令嬢も絶滅し、合コンに明け暮れる“肉食女子”なる種族が出現した現在、世の男性にとって女性の希少性はなくなってしまったのである。その上、就職氷河期や不況のせいで、従来右肩上がりに上がるはずだった賃金はさっぱり上がらず、将来の展望も見えない時代になってしまったのである。女性の存在は大して珍しくもなく、自分の生活も不安定な男性にとっては結婚は負担以外の何物でもなく、そんなことをして幸せになるとも思えなくなったのである。
昔は結婚すると、掃除、洗濯に家庭料理を食べさせてもらえるという新婚幻想があったが、今時の若い女性は料理が下手で味オンチが多い。コンビニ弁当より美味しいものを作ることが出来ないのである。これではわざわざ結婚するメリットを男性側からは見出せない。しかもインターネットの普及により貞操観念に問題のある物件や事故案件(フェルナンド山口風に言えば)が多い。
そうなると、適齢期の何割かの男性は結婚に夢を見出せなくなり、興味がないということになるのである。婚活している女性にとってはますます逆風が吹くという図式になるのである。結婚したい女性と、結婚したくない男性は逆の曲線を描いて増えていると言えよう。
これはかつて日本社会に存在した男性と女性をマッチングさせるシステムが崩壊したことを示すものである。

筆者は年齢的にはオジさんと呼ばれる年代であるが、訳あって独身になってしまった筆者と同年代の男性が婚活した事例が数件ある。彼等はどういう訳か結婚相談所に何十万も支払って配偶者を斡旋してもらっている。動機や結婚願望は極めて真面目である。彼等は異口同音に老後の心配を口にし、その不安を解消するために再婚しているのだ。そして不幸なことに何故かこうしたケースの再婚は金の切れ目が縁の切れ目になってしまうようである。老後の不安も愛ではなく金次第ということなのだろうか?

実は結婚の第一の目的は経済の安定にあるのではないかと筆者は考えている。働く女性の敵は職場のオジさんではなく、働きたくない女性なのである。それは昔から変わっていない。エビちゃん風にかわいくして男性に媚びる女性に舌打ちしているのは仕事一筋の女装した女性である。男女雇用機会均等法の施行以前は女性に職業と経済的自立が開放されていなかったので、女装した女性は銀座にしかいなかったが、今では働きマンに代表されるように“男スイッチ入ります”と宣言している女装した女性が激増している。こうした女性は経済的に自立しているので、結婚は人生のトッププライオリティではなくなっている。女性の経済的自立が出生率低下の背景にハッキリ現われていることは今や常識である。

徳川家康が江戸幕府を開闢したとき、国家千年の大綱として実に重要なことを行った。それは婦女子の教育である。女三界家なし、と定義し、幼い時は親に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子に従い、と定義して女性の自立を一切認めなかった。このことによって大和撫子は日本の国を縁の下から支える存在となったのである。倫理感や貞操概念を厳しくしつけることによって立派な日本男子を量産しようとしたのである。これはいわば品質のよいサムライを大量生産するためのMRP(資材所要量計画)のようなシステムだったのである。
この優れたシステムが戦後のGHQの侵略によって崩れてしまい、その結果生まれた第一世代がニューファミリーと呼ばれた団塊の世代だったのである。

その頃まで、結婚しない女性は“行かず後家”と呼ばれ、要するに欠陥品か役立たず扱いされて社会から白眼視されていたのである。これはつい20年前位までの日本の現状だったのである。その頃まで結婚というのは女性にとっての職業のようなもので、マックス・ヴェーバーが生きていればおそらく日本社会を分析して”職業としての結婚”という本を書いたであろうと思われる。
高度成長期の年功序列のシステムがそれを経済的に支えたのである。現在、青年男女のほとんどすべての組み合わせが結婚する時代はもう既に終っている。また、結婚に憧れる男性も少なくなっている。得られる幸せと負わなければならない責任の大きさが割に合わないと思っているからである。これは別の言い方をすれば、男性と女性の間の社会的信頼関係が崩壊しているということである。一つにはチョンガーと呼ばれた食事もろくに作れない寂しい独身男性がコンビニの登場によって食事に困らなくなったという食生活の改善もあり、必要に迫られて結婚する必要がなくなったこともある。

ここで一つ疑問が生じる。
結婚というのは男性と女性が愛を育んで永遠を誓うゴールなのだから、現在のように結婚をしない恋愛が多数あるということはゴールまで昇華しなかった失敗恋愛なのだろうか?

答えは否である。

厳しいことを言うと、ほとんどの人は一生に一度も本当に人を愛することなく生きているのである。相手のために命を落としてもよいというような真剣な恋愛をした人は皆無に近い。こういう恋愛をするためには相手も必要だが、まず当人が相当立派な(立派という言い回しも変ですが)人物でなければれば不可能なのである。臆病で卑怯な人間が愛と誠のように(古いなー)“君のためなら死ねる”とは嘘でも思わない。その前に自分がかわいいのである。ほとんどの人々は真剣な恋愛をする能力は備わっていないと見るべきである。故に、一生に一回も真剣に人を好きになったことがない人は実にたくさん存在するのである。ましてや、相手からそれだけの理解と尊敬を得ることなどもっと難しい。要するに、もともと恋愛にはかなりの人格的才能が必要で、世の中の殆どの人はその才能を持ち合わせていないのである。

厳密に愛だけでいうならば、そんなに沢山の人々が結婚するはずはないのである。
そんな真剣な物件(またまたフェルナンド山口風ですが)がおいそれと転がっているはずがない。
ロミオとジュリエットは百万人に一組のレアケースなのである。
そう考えると結婚は恋愛の結果ではないということになる。

実は、もともと日本の女性にとって結婚は職業であった(永久就職)。親が決めた見ず知らずのお見合いの相手と結婚していたわけであるから、相手のために死んでもよいと思って結婚しているはずはないのである。ひどいときは顔もロクロク見ないで式を挙げていたのであるから、就職先の上司の顔を覚えていないのと大差ない。

結婚が職業だとすれば、その活動は“婚活”となる。
最近またそれに気づいてきたのかもしれない。第2の就職活動である。
就職活動ならば通常は“スタート”なのだが、ここで世の中の女性すべてが忘れている重大な事実がある。

彼女達は“結婚をゴール”と信じているのである。それは大きな間違いである。
現実は、“結婚は一瞬、生活は永遠”なので、終わり(ゴール)ではなく、始まり(スタート)なのである。

こんな簡単なことを誰も理解しようとしない。

結婚をゴールと妄信した女性は、結婚した以後何にもしない。人間としての成長はその段階で完全にストップして、その精神状態で死ぬまで進歩せずに生きるのである。特に専業主婦になると社会性も失うのでほとんど世の中から乖離した状態になるのである。

あれだけ幸せオーラを振りまきながらいまだに結婚していないエビちゃんやもえちゃん。結婚生活が2年しか続かなかった藤原紀香。

時代を牽引した理想像がどんどん崩れていく時代、彼女たちの明日はどっちなのだろうか?
(余計なお世話ですが)