【第127回】論語と算盤 -今こそ問われる日本のエートス その2

仁や中庸は孔子とその弟子の対話の中で抽象的に語られるだけで、なんら具体的な定義はない。
実はこの曖昧さは実に使い勝手がよい。便利である。
儒教が時々に為政者に用いられた要素がここにあるのではないだろうか?その時代、その文化の中で、道徳的に最上の姿を“仁”と呼んで人々を唱導できるからである。「お前の考え方は孝に反するし、仁ではない」などど一喝されれば目上の人間に楯突くことはできなくなる。そうやって儒教社会は長幼の序を形成したのだ。何の学問のないおっさんでも仁や義や忠や信や孝や礼のような一文字を駆使すれば威張れるのである。これは為政者や年長者が秩序を形成する上でこのうえなく便利なツールである。中国も韓国も日本もそうやって儒教社会、儒教倫理社会を形成してきたのである。
筆者はこれは一種の政治手法ではないかとも考えている。
それと同じ論理が中国仏教である禅で用いられる“悟り”とか“大悟”という境地である。「お前は悟っていない。修行せよ。」この一発で弟子は師匠にかなわなくなるのだからこれは大変便利である。もともと中国人は西洋人やギリシア人のように厳密で論理的な民族でないので、こういう“のようようなもの”の概念に引っ張られるのかもしれない。
筆者は今では“仁”は孔子の倫理の理想形、“中庸”はその方法、“君子”はそれを担う人くらいに考えている。もし筆者が昌平坂学問所(昌平黌)の学生だったら一発で破門されるに違いない。とにかく“仁”は便利である。使い勝手使が実によい(誰か仁や中庸をわかりやすく解説してくれませんかね?)。
ちなみにヴェーバーは中庸を道教と儒教のダブルスタンダードを維持するための曖昧な立場を指していると「儒教と道教」の中で語っている。

与太話はこれくらいにして本題に立ち返ろう。
第一の疑問に戻るが、なぜ孔子くらい頭のいい人物が冠婚葬祭の手順や形式に執拗にこだわったのか?
例えば、八佾編の一編にこういうくだりがある。
(以下引用)


孔子が季氏のことをこういわれた、「八列の舞をその廟(おたまや)の庭で舞わせている。その非礼までも〔とがめずに〕しんぼうできるなら、どんなことだってしんぼうできよう。(わたしにはがまんができない。)」
(以上、論語 金谷治 訳注 2008年 岩波書店 51ページより一部引用)



八佾編の十~十二編にもこういうくだりがある。
(以下引用)


先生がいわれた、「禘の祭で、〔鬱鬯(うつちょう)(黒きび))の香り酒を地にそそぐ〕灌の儀式が済んでからあとは、わたしは見たいとは思わない。」ある人が禘の祭の意義をたずねた。先生はいわれた、「わからないね。その意義がわかっているほどの人なら、天下のことについても、そら、ここで見るようなものだろうね。」と自分の手のひらを指された。御先祖のお祭りには御先祖がおられるようにし、神々のお祭りには神々がおられるようにする。先生はいわれた、「わたしは〔なにかの事故で〕お祭りにたずさわらないと、お祭りがなかったような気がする。」
(以上、論語 金谷治 訳注 2008年 岩波書店 58~59ページより一部引用)



郷党編の九~十編は以下のようになっている。
(以下引用)


坐席がきちんとしていなければ坐らない。〔必ず整えてから坐られる。〕村の人たちで酒を飲むときは、杖をつく老人が退出してからはじめて退出する。村の人たちが鬼やらいをするときは、朝廷の礼服をつけて東の階段に立つ。
(以上、論語 金谷治 訳注 2008年 岩波書店 193ページより一部引用)



論語が政治の書であるのはいいとして、なぜ孔子くらい頭のいい学者がこんなくだらない形式的なことに拘泥するのか筆者はさっぱり理解できなかったのである。並ぶ順序だの、服の色だの、どこに座るだの、そんなことはどうでもいいじゃないかと思ったのである。なぜこんなくだらないことに大孔子先生がこだわるのか不思議であった。このことを深く洞察して西洋と東洋の相違を説明しきった男がいる。かのマックスヴェーバー大先生である。彼は名著「儒教と道教」の中で、中国の社会構造をつぶさに研究して、西洋よりも功利に対して寛容であった中国社会に資本主義が開花しなかったことを鋭く分析している。
孔子が“礼”と言っている礼の中には、我々が日常で使用する礼儀(親しき中にも礼儀あり、の礼儀)の概念の他に、儀礼や礼式のような形式主義的なしきたりが重んぜられている。ヴェーバーは中国研究の中で中国人の宗教観がダブルスタンダードになっていることを見抜いたのである。これが彼の知性による大発明であった。
ダブルスタンダードとはズバリ儒教と道教である。
道教とは中国人の土着信仰で、呪術的で神秘的要素をふんだんに持ち、孔子の“怪力乱神を論ぜず”(俺は超自然現象や幽霊には興味がねーぜ)と全く相容れないものであった。道教は中国人にとって(中国の庶民にとって)宗教ではなく生活習慣に近いような基礎なのである。中国人の“本音”と言ってよいだろう。その道教の上に生きている民衆を引っ張るために政府が用意した“建前”が儒教なのである。儒教と道教は共に“天”をいだく宗教であるが、儒教は周王朝の“天子”を理想として掲げ、庶民をコントロールすることに用いた、即ち、祭祀の代表者としての権威付けを様々なる様式や儀式や形式を駆使して庶民に示したのである。これは儒教の持つ政治的な重要な一面である。この建前のエートスをヴェーバーは外面的倫理の規定と呼んだのである。このことは、論語の記述の中には殆ど出てこない。殆ど出てこない位、常識的なことだったのかもしれない。
中国に資本主義が開花しなかった原因をヴェーバーはこの本音(道教)と建前(儒教)の乖離であったと主張したのである。それ故、“外面的な倫理”だったのである。孔子にとってお辞儀の作法や食事の作法や儀礼の服装はほとんど政事(まつりごと)そのものであったのだ。それ故、論語には礼による権威主義によって民衆を支配するというシナリオが明快に出てくるのである。ヴェーバーは儒教と道教のダブルスタンダードが資本主義のエートスを生まないと言ったが、方や我が国日本はどうかと言えば、本音と建前のダブルスタンダードどころか儒教と仏教と神道が三つ巴で同居する有様なのである。状況はそんなに異なっていないと思うのは筆者だけであろうか?

ちなみにヴェーバー大先生かく語りき。「儒教と道教」 第八章 結論(儒教とピューリタニズム)より。
(以下引用)


(前略)
儒教の礼節=理想の感化はかならずしも、この点は十分注意してほしいが、いつもしきたりの様式のなかで効果をあらわしたとはかぎらない。が、しかし、しきたりが実習された『精神』のなかでそれは効果を発揮したのであって、この礼節=理想の審美的に冷静な気分は、封建時代から受けつがれたすべての義務、とくに慈善の義務を、象徴的な儀礼に凝結させたのであった。
他面、鬼神〔霊祖〕信仰は、氏族仲間をいよいよ緊密に結びつけた。さんざん苦情の対象となった不誠実は明らかに一部は、—古代のエジプトにおいてもそうであったように—いたるところでひとを不誠実になるように教育してきた家産制的な国庫主義の直接の産物であった。—というのも、租税徴収の経過は、エジプトと中国とできわめて類似していた、つまり襲撃、笞打ち、姻戚の救助、責めたてられたものの号泣、恐喝者の畏怖、そして妥協、であったからである。が、それとならんで、〔かの不誠実は〕たしかに、儒教において儀礼的・慣例的に礼度にかなったものだけがひたすら礼讃されたことの結果で倫理は人間どもを、きわめて意図的に、その自然から生育したままの、または社会的な上下関係によって与えられた情誼的な諸関係のなかに放置した。儒教倫理はこうした関係を、しかもこの関係だけを、倫理的に光り輝かせ、結局は人間から人間への、つまり君侯から臣下へ、上司から下僚へ、父兄から子弟へ、師から弟子へ、友から友へのこのような情誼的な諸関係によってつくられた人間的な恭順〔孝弟、感恩など。〕義務以外のいかなる社会的義務も儒教倫理には知られていなかったのであった。
(中略)
中国においては、すべての共同体的行為は、純粋に情誼的な、とりわけ親族的な関係によって、そのほかでは職業上の兄弟結盟によって包括され、また制約された。ところが、一方、ピューリタニズムは、これにたいして、すべてを没主観化し、合理的な『経営』と純粋に客観的に『事務的な』関係とのなかへ解消し、中国において原則的に全能であった伝統と、地方的習慣と、具体的な情誼的な官吏的恩恵とのかかわりに、合理的な法律と合理的な協定とを設定したのであった。
(中略)
儒教徒にあっては、原生的な衝動の自由な表明は制限されたが、それは〔右のピューリタンのばあいとは〕別個の性格をもっていたのであった。儒教徒のきびきびした克己の目ざしていたものは、外面的な身振りや作法の威厳、すなわち『面子』を保つことであった。儒教徒のこうした自制は、審美的な、しかも根本においては消極的な性格のものであった。つまり、『態度』そのものが、特定の内容なしに、評価され追求されたのである。〔ところが〕ピューリタンの同様にきびきびした自制は、ある積極的なもの、つまり特定び資格のある行為と、さらにそれを超えて、より内面的なもの、つまり、罪をうけて墜落しているとみなされている己れの内なる自然の整然たる克服とを志向していたのであった。徹底した敬虔派はこの内なる自然のたな卸し表を、ベンジャミン・フランクリンのような亜流もなお毎日行っていたような一種の簿記のようなやり方で、確認したのであった。というのも、超世俗的な全知の神は中心的な内なる心的態度に目を注ぐのに、儒教徒が適応する現世はこれに反して、典雅な身振りだけしか重んじなかったからである。外面的な『端正』しか顧慮しなかった儒教的君子は他人にたいして不信を抱いており、また自分自身にたいしてもそのような不信があることを前提していたが、こうした一般的な不信がすべての〔商業上〕信用とすべての取引行為とを妨げた。が、こうした儒教徒のあいだの不信と対照的であったのが、ピューリタンのもとでみられる同信者の・宗教的に制約されているがゆえに無条件でゆるぎのない合法性にたいする信頼—とくに経済上の信頼をも含めた—であった。〔そして〕この信頼は、現世と人間との—最高位にある者をも含めた、またまさにそうした者の—被造物的堕落に関する、ピューリタニズムの深い現実主義的な、またまったく憚ることのない悲観論を、資本主義的取引に不可欠の〔商業上〕信用の障害たらしめないで、むしろこの悲観論を誘って、相手方の客観的な(外的な、また内的な)能力に対する公平な考量をさせるにまさしく足りたのであった。この相手方の考量というのは、『正直は最良の政策である』という原則にしたがった没主観的な営業をおこなうために欠くことのできない諸動機の恒常性を期待するものなのである。
(中略)
中国人は、十中八九は、日本人と同じくらい、いやたぶんもっとそれ以上に、近代の文化地域において技術のうえでまた経済のうえで完全な発展をとげた資本主義をわがものとする能力があるかもしれないのだ。中国人がこうした要求にはもしかすると生まれつき『天分がない』のではないかなどということは、明らかに全然考えられないことだ。しかし、西洋にくらべて外面的には資本主義の成立に幸いするきわめてさまざまな事情があったにもかかわらず、資本主義は中国においてつくりだされたことがないのであって、そのことはあたかも、西洋の、およびオリエントの古代において、またはインドにおいて、またイスラム教の勢力範囲において、これらの諸領域のいずれにおいても中国と種類こそちがえ同様に有利な事情が資本主義の発生を歓待するようにみえはしたが、結局資本主義は創造されなかったのと同様であった。
(以上、儒教と道教 木全徳雄 訳注 1971年 創文社 389~411ページより一部引用)



いろいろ難解な言い回しが多いが、簡単に解説すると、“外面的な『端正』しか顧慮しなかった儒教的君子は他人に対して不信を抱いており、また自分自身に対してもそのような不信があることを前提していたが、こうした一般的な不信がすべての〔商業上〕信用とすべての取引行為とを妨げた。”とあるのが、儒教社会には会社同士、取引先同士の信頼関係が醸成されず、したがって社会に資本が蓄積されないし、それを循環して活用する資本主義は発達しなかったと結論しているのである。
それに引き換えピューリタンは、“ピューリタンのもとでみられる同信者の・宗教的に制約されているがゆえに無条件でゆるぎのない合法性にたいする信頼—とくに経済上の信頼をも含めた—であった。”とあるのは、ピューリタンの宗教的禁欲が労働への勤勉とピューリタン同士の相互の信頼を生み出して労働や商業活動によって蓄積された社会の富を信頼関係を持って循環させることができたとヴェーバーは主張したのである。
要するに資本主義は性善説を前提としたしくみで、儒教はその信頼関係を作りえなかったと主張しているのである。

次回は渋沢栄一登場

次回に続く