【第119回】夢酔独言

多分、世の中のお父さんは8月最終週になって子供の宿題の応援に狩り出されることになると思われるが、ドリルやテストの類はともかくとして、厄介なのが読書感想文や絵日記ではないかと思う。絵日記は起こった事象を耽々と再現するしかないので助けようがないが、読書感想文はスキルが必要となる。よく読書感想文というと、課題図書を読んで、“感動した”とか“素晴らしい”とか“自分もこういう立派な人にならなければならないと思いました”とか、おためごかしの美辞麗句をいっぱいちりばめてヨイショする文章であると思われがちであるが、それはとんでもない誤解である。
例えば、全く面白いところも感動するところもないようなつまらない課題図書を選んでしまったら、一体何を書けばよいのか?と子供に聞かれることだろう。
実は同じ悩みをかの有名な文芸評論家の小林秀雄氏も持っていたのである。彼はそこで以下のように考えた。

“批評とは文芸作品を題材にして自らを語ることである”

ということは、前述の“つまらない”本の感想を書くためには、自分が何故この本を“つまらない”と思ったのかを考察して書けば立派な感想文になるというわけなのである。
理論だけ言っても説得力がないので、筆者も最近読んだ勝小吉の「夢酔独言」という奇書の読書感想文を書いて夏休み特集コラムの宿題提出としたい。

「いつでも死ねる -夢酔独言」

幕末に滅茶苦茶な剣客がいた。飲む、打つ、買う、三拍子揃って、喧嘩、刃傷沙汰はしょっちゅうで、最初の倅は座敷牢に幽閉されていたときに女中に産ませた。その倅の名は、勝麟太郎、後の勝安房守海舟である。
海舟といえば江戸無血開城を薩摩の西郷隆盛と交渉した人物として知られているが、もとは由緒正しくない(二代前に御家人株を金で買った家です)貧乏旗本で、海舟という名前を見るとサザエさん一家のようであるが(海にちなんでます)、もともとは軍艦奉行をしたり、咸臨丸で太平洋を横断したりした日本の元祖ヨットマンである。ちなみに、二代目ヨットマンは弟子の坂本竜馬である(これは本当の話です。当時の船は帆船ですから、ヨットの操船技術(英語ではシーマンシップ)がないと乗れませんでした。ロープの結び方だけで実に何百種類もあり、それを瞬時に結べないと駄目でしたし、六分儀(セクスタント)による天文航法は今のようにGPSがないので必須の技術でありました)。

話が思い切り横道にそれてしまったが、その無茶苦茶な剣客が勝親父であり、本名を勝小吉と言った。
彼は12歳の時に林大学頭(今の湯島の聖堂「昌平黌」(しょうへいこう))に入門するが、学問が全く嫌いで14歳の時に家を出奔して物乞いになって全国を放浪した。その後持ち前の江戸っ子の血の気の多さから剣術に没頭し、吉原で味方3人:敵30人の喧嘩(喧嘩というよりヤクザの出入りに近い)をしたり、幕府の御用金をくすねて吉原の女郎を身請けしたり(今でいうと大蔵省の金をくすねて銀座のナンバーワンホステスにマンションを買うようなことですな)、21歳でまた家を出て放浪し、とうとう座敷牢に押し込められてしまったのである。

その座敷牢に幽閉されている間に女中に手をつけて産ませたのが勝海舟であった。
飲む、打つ、買う、喧嘩、何でもござれの旗本アウトローである。
小吉は14歳で出奔したので殆ど学問らしい学問を学んでおらず、字もひらがなばかりしか書けなかった人物であったが、その小吉が自分のアホな生き様を子孫が真似しないようにと書いた珍妙な自伝がかの有名な「夢酔独言」である。

この本は実に幼稚な稚拙な文章で、当時の江戸っ子のべらんめぇ調の会話をそのまま文字に活写したという点ではべらんめぇの教科書としても面白い本である。

夢酔独言の書き出しは以下の文章から始まる。
(以下引用)



“おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもふ。故に孫やひこのために、はなしてきかせるが、能々(よくよく)不法もの、馬鹿者のいましめにするがいいぜ”
(以上、夢酔独言より一部抜粋)



上記のような口語体べらんめぇで始まる。とても武士の書いた本とは思えない内容で、例えば、14歳の時に物乞いになって旅した時のエピソードの箱根山中の野宿というくだりは以下のような抱腹絶倒の文章である。
(以下引用)



岩のかどにてきん玉を打つたが、気絶をしていたと見へて、翌日漸々人らしくなつたが、きん玉が痛んであるくことがならなんだ。二、三日過ぎると、少しずつよかつたから、そろそろとあるきながら貰つていつたが、箱根へかかつてきん玉がはれて、うみがしたたか出たが、がまんをして其あくる日、二子山まであるいたが、日が暮れるから、そこに其晩は寝ていたが、夜の明方、三度飛脚が通りて、おれにいふには、「手前ゆふべはここに寝たか」といふゆへ「あい」といつたら、「つよひやつだ。よく狼に食われなんだ。こんどからは山へは寝るな」といつて、銭を百文斗り呉た。
夫から三枚橋へきて、茶屋の脇に寝ていたら、人足が五、六人来て、「小蔵や。なぜ寝ている」といいおるから、「腹がへつてならぬから寝ている」といつたら、飯を一ぱいくれた。
(以上、夢酔独言「箱根山中の野宿」より引用)



小吉の先祖は三代前までは越後柏崎出身の男谷検校といい、多分、検校なので金貸しの類ではなかったかと思われる。特にこの時代の検校は座頭金という高利貸しを営み、小禄の御家人や小身の旗本に貸し付けており、その借金のカタに旗本の身分を購った可能性が高い。それ故、もともとの血筋は武士ではない。

勝小吉と夢酔独言が世に知られるようになったのは最近では子母沢寛の親子鷹という小説であるが、もともとは坂口安吾の青春論に紹介された奇書であり、安吾は小吉と対極をなす剣客として五輪書の宮本武蔵を比べて批評している。彼の天才的な彗眼の光る一文である。
(以下引用)



僕は先日勝海舟の伝記を読んだ。ところが海舟の親父の勝夢酔という先生が、奇々怪々な先生で、不良少年、不良青年、不良老年と生涯不良で一貫した御家人くずれの武芸者であった。尤も夢酔は武芸者などと尤もらしいことを言わず剣術使いと自称しているが、老年に及んで自分の一生をふりかえり、あんまり下らない生涯だから子々孫々のいましめの為に自分の自叙伝を書く気になって「夢酔独言」という珍重すべき一書を遺した。
僕は「勝海舟伝」の中へ引用されている「夢酔独言」を読んだだけで、原本を見たことはないのである。なんとかして見たいと思って、友達の幕末に通じた人には全部手紙で照会したが一人として「夢酔独言」を読んだという人がいなかった。だが「勝海舟伝」に引用されている一部分を読んだだけでも、之はまことに驚くべき文献のひとつである。
この自叙伝の行間に不思議な妖気を放ちながら休みなく流れているものが一つあり、それは実に「いつでも死ねる」という確乎不抜、大胆不敵な魂なのだった・・・ただ淡々と自分の一生の無頼三昧の生活を書き綴ったものだ。子供の海舟にも悪党の血、いや、いつでも死ねる、というようなものがかなり伝わって流れてはいる。だが、親父の悠々たる不良ぶりというものは、なにか芸術的な安定感をそなえた奇怪な見事さを構成しているものである・・・
(以上、坂口安吾の「青春論」より一部引用)



この二人の剣客を比べると明らかに剣と生き様が異なる。筆者の言葉で言うならば、“いつでも死ねる剣”と“絶対死なない剣”の差である。
夢酔独言のなかにはいつでも死ねるという覚悟が随所に登場する。

「おれがおもふには是からは日本国をあるいてなんぞあったら切死をしようふと覚悟して出たからにはなにもこわひことはなかった」
「したいことをして死ぬ覚悟」
「こわいものなし」

勝小吉は正真正銘の無頼であった。命も惜しくないし、人生も惜しくないし、金もいらない男の生涯はきわめて爽快である。生きたいように生きて自由自在であった。
思えば人を裏切ったり、卑怯なふるまいをしたり、人を騙したり、弱い者いじめをしたり、現代のサラリーマン社会は竹中さんが望んだとおり完全にアメリカ化してモラルがなくなってしまっている(生き残るためには何をやってもよい社会が竹中さんの望んだ米国型格差社会です)。
現代のサラリーマンの特質は非トムソーヤである。即ち、勇気がなくて、卑怯結構という論理である。もちろん、義理も人情もなく、恩を仇で返すこともしょっちゅうである。
筆者はそういうお父さんが家で立派な父親として尊敬されるとはよほどの演技力がない限り不可能ではないかと思うのだ(皆さんどうしてるんでしょうかね)。
小吉は自らも発言しているように、大馬鹿者の無頼であったが、人情に厚く痛快な剣客であり、刀剣の鑑定から乗馬から武芸に至るまで相当の腕前であったことも確かである。
その破天荒な親父が後の幕末の雄である勝海舟を育てたと言える。
また、この親子の災難も似ていて、親父も箱根の山できん玉をぶつけたが、倅もきん玉を犬にかまれて大変な目にあっている。この時の小吉の看病がまた鬼気迫るほど凄まじかったようだ。
(以下引用)



岡野へ引っ越してから段々脚気もよくなつてきてから、二月めにか、息子が九つの年、御殿から下つたが、本のけいこに三つ目向ふの多羅尾七三郎が用人の所へやつたが、或日けいこにゆく道にて、病犬に出合てきん玉をくわれた。
其時は、花町の仕事師八五郎というふ者が内へ上て、いろいろ世話をして呉た。おれは内に寝ていたが、知らして来たから、飛んで八五郎が所へいつた。
息子は蒲団を積で夫に寄かかつていたから、前をまくつて見たら玉が下りていた故、幸ひ外科の成田といふがきているから、「命は助かるか」と尋ねたら、六ケ敷いふから、先息子をひどくしかつてやつたら、夫で気がしつかりとした容子故に、かごで内へ連てきて、篠田といふ外科を地主が呼で頼んだから、きづ口を縫つたが、医者が振へているから、おれが刀を抜て、枕元へ立て置て、りきんだから、息子が少しも泣かなかつた故、漸々縫て仕舞たから、容子を聞たら、「命は今晩にも受合はできぬ」といつたから、内中のやつはないてばかりいる故、思ふさま小言をいつて、たたきちらして、其晩から水をあびて、金毘羅へ毎晩はだか参りをして、祈つた。
始終おれがだいて寝て、外の者には手を付けさせぬ。毎日毎日あばれちらしたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違つた」といいおつた位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともないから、病人はかんびよやうがかんじんだよ。
(以上、夢酔独言「麟太郎犬にかまれる」より一部引用)



いつでも死ねるということは、“今を切に生きる”ということである。それゆえ、彼は何をやっても一生懸命取り組み、乗馬、刀剣鑑定、剣術、占い、喧嘩、行、断食、全て徹底的に取り組んだ。多芸であるが中途半端ではない。徹底している。そこに一心不乱の無頼があったのである。

現代の日本人は平均寿命が80歳を超えて70代で死んでも大往生と言わなくなった超長寿社会に生きている。なかなか死なない、すぐには死なない世の中に生きていると、生命をかけて取り組むことなど殆どなくなってしまうのではないだろうか?そうなると“勇気”なんていうものは不要以外の何物でもなく、昔の侍にあった衿持もない“卑怯”者でよいのだ。
今、日本の成年男子はとてつもなく劣化しているのではないだろうか?
勝小吉のいつでも死ねるという死生観の中に太く短く人生を駆け抜けた無頼の生き様を見るのである。
考えてみれば幕末の志士は皆剣の達人であった。これは偶然ではない。
坂本竜馬は桶町の北辰一刀流、剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉道場(通称:小千葉道場)で免許皆伝であるし、桂小五郎(木戸孝允)は九段の斎藤弥九郎の練兵館の塾頭であったし、近藤勇、土方歳三は天然理心流剣術道場・試衛館の剣豪であったし、勝海舟も剣術は、実父小吉の本家で従兄弟の男谷精一郎の道場、後に精一郎の高弟島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝である。

彼らは剣を通じて“いつでも死ねる”という死生観を身につけたといえる。
それが今を切に生きるにつながっているのである。
逆に今のお父さんは“なかなか死なない”と思い込んでいるので、命を懸けて何かをなすという気概も志も全く無い。
卑怯結構、卑劣結構、すべては家族のため(ほんとは自分のため)、生き残るためならなんでもやる、プライドは妙に高いが、恥の概念は希薄であるし、日本一の無責任男でなんの苦痛もない。

サムライが消えうせた現代の日本に、小吉の無頼は化石にしか見えないかもしれない。
求む、サムライ!