【第117回】新・日本之下層社会

「日本之下層社会」は、殖産興業華やかなりし、明治の中頃に横山源之助というジャーナリストが著した、当時の下層階級と呼ばれた人々(労働 者、農民、職人、等々)の実態を調査したルポルタージュである。現代中国にも、陳桂棣・春桃著で「中国農民調査」という本があって、日本では文藝春秋社か ら出版されているが中国では現在発売禁止となっている。同様の本に、細井和喜蔵の名著「女工哀史」や社会主義者である河上肇の「貧乏物語」などが有名である。

明治大正期の日本は現在の中国と同様に資本主義の発達や近代産業の勃興によって貧富の差が増大したのである。のちに共産主義やプロレタリア運動の原因とな るこれら富の偏在は資本主義の副産物として次々に日本の社会に産み落とされたのである。金持ちと貧乏を量産するMRPが回っているようなものである。富も循環して再生産されるのと同様に貧しさも循環して再生産される。
戦前の日本ではそれが日本人の現実であったのだ。いわく、階級社会である。
これが何代にもわたって連続すると、下流から生まれて一生下流のままで育ち、次の世代もまた同じカーストに定着するというサイクルを生み出すのである。
これが階級社会であった。聖書にあるように、「富める者はますます富み、貧しき者はさらに貧しく」という社会である。

今、現代の日本でこの貧乏の再生産という悪魔のサイクルが密かに復活しようとしている(しくみを作ったのは、小泉・竹中さんです)。その主役はまたしても教育である(筆者のコラム第69回「焚書坑儒とゆとり教育」参照)。
2008年5月17日号の東洋経済の子供格差という特集に驚くべき実態がレポートされている。低学歴と貧困と虐待が明快な連鎖を持っていることが明らかになっているのだ。
まず、生活保護受給世帯の72.6%が中卒かまたは高校中退(これを低位学歴率というらしい)である。その中で母子世帯の約7割が低位学歴率で、その中の3割が10代で出産、そのうち生活保護母子世帯4割が2代にわたり生活保護を受けるという結果が出ている。
現在の日本では、教育という環境を通じて貧困が再生産、または拡大生産されているという事実である。典型的なサイクルを書いてみよう。

親が高校中退 → 10代で出産 → 離婚 → 母子家庭 → 生活保護 →
子供も高校中退 → 10代で出産 → 未婚の母 → 生活保護 → ・・・

このサイクルが母子家庭の4割で繰り返されているとレポートは書いている。
実はこの裏側に児童虐待がセットになっていて、ひとり親(片親)家庭の31.8%、経済的に困難な家庭の30.8%で児童虐待が起こっている。
子供は社会の重要な予備インフラである。教育はそのインフラを完成させるための重要な投資である。本来はこれは国や社会制度が完全にケアしなくてはならな い問題なのだが、小泉・竹中改革の、自立:自己責任という美名のもとに切り捨ての対象となっていると言わざるをえない。格差社会到来による本当のしわ寄せは母子家庭にきている。

戦後の教育によって筆者は、人間は生まれながらにして平等であるとか、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずとか吹き込まれて育ったが、29歳のときに自分に子供が生まれると分かったとき、人間は生まれながらにして不平等なのだということを本当に実感した覚えがある。少なくとも彼が成人するまでの20年間は親の教養、財力、人格の影響をほぼ100%受けて育つのである。子供にその選択権はない。アラブの富豪の家で生まれた子供と父親不明の子供達の 境遇が同じ訳がないのである。ただ、日本の場合は少なくとも小中学校あたりまでは一律に給食を食べて同じランドセルを背負って同じ制服を着て通学するので、それ程格差を意識しなくてもいいようにできているが、それぞれの家庭の事情は大きく異なる。
母親も一律ではなく、子供に全く愛情を注ぐことなく自分のことしか考えていない母親もいれば、自分を犠牲にして子供のために尽くす母親もいる。これは100%違う。一般的な大部分の常識からそういう母親像を推し量って、料理も掃除も子供の面倒も全くみない母親がいるというのはその人の子供になったこと がない限り判らない問題である。
残念ながら教育のない親ほど恒産なくして恒心なし、貧すれば鈍すなのである。
そういう家庭に育つと子供は鈍したままのコピーになり、その子供が親になったときには自分の子供に同じ誤ちを繰り返すのである。幼児期に虐待された子供は 長じて子供に手をあげるようになるというのはその典型的な例である。そうやって何代にもわたって閉塞された環境を抜け出せない階級は犯罪の温床となるので ある。
ブラジルのリオデジャネイロのスラム街を舞台にした実話「シティオブゴッド」の世界である。

教育が貧困の温床となるというのはなんとなく雰囲気で判ったが、それでは文科省が日本国民の教育費を大学や大学院に関するまでタダにしたら貧困は改善されるかといえば筆者はそうではないだろうと考える。
たしかに大学の学費は国立でさえも高騰していて生活保護を受けているような状態ではとても賄えないことは現実であるが、特待生とか奨学金のような仕組みも充実しているので本当に優秀だったら貧富に関係なく高等教育を受けられる仕組みは存在する。

ではなぜそうならないのだろうか?トンビはタカを生めないのだろうか?
筆者は実は家庭環境こそが学力に直接影響があるのではないだろうかと考えている。
オヤジが無職で家で暴れてくだまいて、オフクロは生活に疲れ果ててボロボロの家庭環境で平然と正座して一心不乱に学問に打ち込めるかという問題である。も しそういうことができたとすれば感情がないか余程の大物である。そのくらいの図太い神経があれば大学に行かなくても貧乏になることはない。
自分の家庭環境や境涯に絶望し始めるのは中学くらいからである。このころから親は絶対的な存在ではなく、社会人として客観的な存在となる。そうなると立派 でない家の子供は運命の不幸を味わうのである。親は選べない。卑怯者で厭な人間でも自堕落な人間でもその関係からは逃げられないのである。

確かに学問に打ち込むにはお金がかかるが、それ以上に安定した幸福な環境がなければ何年間も学業に打ち込むことは難しいのではないだろうか?
深刻な悩みがあったり、人生に絶望していては勉強どころではないからだ。
父親と母親が病弱で生活保護を受けているときに、バイトもせずに一心不乱に勉強に打ち込むということは余程の両親の応援を受けていない限り不可能なのである。
またそうして苦労して一流大学に入ったからといって20年後は判らないが、卒業してもたいして金持ちになれるわけではない今の時代では具体的な見返りもない。20年後の給料より明日のご飯のほうが重要である。
それゆえ環境はとても重要なファクターなのである。

大学進学率が、親の職業がホワイトカラーで61%であるのに対して、自営業33%、ブルーカラーで18%(2005年調査)であったり、東大早慶で親の年収が平均で800万以上であるというのは偶然ではないのである。恒産と恒心なくしては学業は成り立たないのである。
貧乏が貧乏を再生産するという循環はこうして出来上がる。

筆者は、最近日本の社会が急激にアメリカ化(竹中さんの望んだとおりになりました)してきて競争社会で弱者切捨やルール無用で卑怯結構という殺伐とした社会になってきたと感じる。
TVドラマの“ごくせん”の喧嘩シーンなんかを見ても、一人を大勢でやっつけることを誰も卑怯と思わないのである。あれはおかしい。昔の青春ドラマ(森田健作ですな)だったら、“おまえらこんな卑怯なことをして恥しいとおもわないのか”くらいの科白が登場したものだが、当たり前のように大勢が一人をリンチ (あれは喧嘩ではなくリンチ:リンチも米国製ですな)していてそれを卑怯であると咎めないのである。勝てばどんな方法を使ってもいいと思っているのであ る。

よく、“生き残りをかけて”というが、日本は昔から狭い国土でライバル同士も金持ち貧乏人も共生してきたのである。全員もれなく“生き残って”共存してき たのである。それが現在では、“強気をくじき弱きを助け”ではなく”、全員平等なのだから自己責任で生きろ”に政治が変化してきている。だが子供の家庭環 境は平等ではない。小泉竹中改革は重要なことを忘れているのではないだろうか?