【第106回】平和の研究 その3 -宗教談義 

学生時代の話である。
新約聖書に以下のような一節があって、筆者はその記述の意味が全く理解できなかった(以下引用)。


■ぶどう園の労働者
「マタイによる福音書」第20章1~16節
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束 で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわ しい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも 行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と 言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から 始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた 人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来た この連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。 『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者 にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』この ように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
(以上、「聖書」(新共同訳)より引用)



あるとき、大学で宗教学を教えている先生がいたので、この話の真意は何かと尋ねた。

筆者: 「いったいこの話の真意はなんでしょうね?朝来て8時間働いても、昼来て
     5時間働いても、夕方来て1時間働いても同じ給料じゃ不公平ですよね。
     いくら約束だからってこれではあんまりですよ。日本の法律だって最低賃金
     法というのがあって、1時間働いたらその労働の対価としてきちんと給料を
     払わなくてはならないと定められています。
先生: 「これと同じエピソードがあったね」
筆者: 「なんですか?」
先生: 「吉田茂だよ。あの人は生前ずっとキリスト教に共感していて洗礼を受けた
     かったんだが、政治家という立場もあって生きている間は実行できなかっ
     たんだ。そこで、死後洗礼といって、死んでから入信したんだよ。つまりは
     6時にぶどう園に行って1デナリオン受け取った。全く働いてないのに受け
     取ったというわけだ。」
筆者: 「なるほど。信仰しているという事実が重要で、その期間や長さはその信仰
     の優劣を表すものではないということですね。」
先生: 「そのとおり。そうでないと親の意志で無理矢理に幼児洗礼を受けた人が一
     番信仰心の厚い信者ということになってしまうからね。このエピソードはその
     ことを言っている。」

なるほど、言われてみればそのとおりである。いつ、何歳で洗礼を受けようともその人の信仰心の強弱には関係がない。厚生年金のように25年以上加入していないと年金が満額でもらいえないという原理とは少し論理が違うのである。

筆者: 「そういえば、“誰かが、あなたの右の頬を打ったなら、左の頬を向けなさい 
     (マタイ5章39、ルカ6章29)。”という有名な言葉を、ドイツの哲学者でたし
     かフォイエルバッハかニーチェだと思いましたが、奴隷道徳と呼んで批判 し
     ましたが、これは無抵抗主義ということなのでしょうか?」
先生: 「実は、ベン・キングスレイが主演したガンジーという映画で、この答えをガン
     ジーが語っているね。」
筆者: 「ガンジーは無抵抗主義だからやはり非暴力、無抵抗だったのでしょうか?」
先生: 「いやこの言葉はそんなひ弱な心情で言ったものではないよ。これはもっと
              勇気の溢れた宣言なんだ。“君が自分の左の頬を叩いたことはすぐに許し
     てやろう。今もう一度右の頬を差し出してやる。今度は殴られる前から君の
     事を許してやるつもりだ。”という、とても挑戦的な発言であり豪胆な勇気を
     表明した言葉なんだ。」
筆者: 「ではこれは臆病者の発言ではないのですね。」
先生: 「そのとおり。ユダヤ教から出発したキリスト教が持っていた異質な点のひと
     つに、ユダヤ民族以外の隣人も愛せよと発言したことであり、暴力や復習の
     輪廻を勇気ある非暴力によって断ち切った点にある 。これは残念ながらユ
     ダヤ教、キリスト教から発展したイスラム教には受け継がれていない。
     実は同様のことが、原始仏教の最古の経典、法句経(ダンマパダ)の冒頭
     に書かれている。これはイスラムやハンムラビの“目には目を歯には歯を”
     の対極を成す考え方で、平和の論理でもある。」

法句経は長らく鳩摩羅什や玄奘三蔵が訳したものしか存在しなかったが、近年、中村元先生が原語(パーリー語)から翻訳したものが出版されているので、そこから引用してみよう(以下引用)。


 

■第一章 ひと組みずつ
 (これは2つの詩がひとつの真理を説くという形式をさす)
三. 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。
    かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息む
    ことがない。
四. 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。
    かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが
    息む。
五. 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨み
    の息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
六. 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。 ―このこと
    わりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、
    争いはしずまる。
(以上、中村元訳「ブッダの真理のことば感興のことば」 -岩波文庫より一部引用)



キリスト教と仏教は多くの共通点を持つといわれているが、非暴力や恩讐の輪廻を断ち切る哲学は今日尚、平和の論理として機能しているといえるのではないだろうか?
最近、義務教育で道徳が正式科目として採用される直前になって流れてしまったが、筆者などは仏教やキリスト教の数々の哲学を平易な事例を作って解説してもよいのではないかと考えている。

論語など諸子百家ももちろんよい。問題なのは道徳を宗教と完全に切り離して扱おうとする偏狭さ(これは明らかにマルクス主義の影響と思われます)のために健全なカリキュラムが作成されない可能性であろう。

戦後の憲法の信教の自由を全うするために、文部省は宗教(特に仏教や儒教)から距離を置いているようだが、その中に内在する倫理観や平和観、道徳観はもっと教育してもよいのではないか。
また、それだけの普遍的価値を持つと筆者は思うのである。まずフィロソフィーの形成から始めなければならない。

これは国づくりの根幹をなす問題ではないだろうか?