【第78回】巨人の星にみる、星一徹の考察

今から20数年前、筆者が学生の頃、仲間が4人以上集まると共通の話題はフォークソングかオーディオか野球か車であった。この4つの話題が話せないと同世代の仲間の輪に入れなかった(我々よりもっと上の団塊の世代になると、これにビートルズとマルクス主義が追加されます)。
筆者は昔からこの4つの話題が苦手だった(というよりも興味がありません)。昔の若者は、「個性、個性」と言いながら実は横並び主義で、誰もが同じ思考、 同じ趣味、同じ価値観、同じ行動パターンを持っていた。要するに、画一的な集団だったのである。だから皆同じ時期に同じ嗜好を持ち、同じものを同じように 好きになったのである(ついでに言うと、アイドルと称して皆同じただの普通の女の子に熱中していました)。

筆者は昔から我が道を行く派だったので、そういう集団主義の中では異質の存在だった。
昔フォークソングが全盛だったころも全く評価していなかった。
南こうせつの“汗をかいたら一休み、お父さん”という曲を聞いて、これは真面目な音楽なのか?普段聞いているJazzやロックと随分違うと違和感を持ったものである。
実はこれは世界最高のフォークライブと知人から紹介されたアルバムの冒頭に入っていた曲で、音楽か漫談か判らないこの曲が、なぜウェザーリポートやスティービーワンダーやローリングストーンズやルイ・アームストロングに匹敵するのか、筆者にはさっぱり判らなかったのである(実は今でも岡林信康や南こう せつや吉田拓郎の音楽が音楽史上に残る名曲の数々で、いろいろなミュージシャンに歌いつがれ、カバーされて残っているとは思えないのですが、皆さんはどう 思われますか?陽水はまた別格ですが)。

その当時、筆者がどう考えても理解できなかったのが、巨人の星であった。なぜ巨人の星を皆が見るのか、感動して涙を流すのか、さっぱり判らなかったのである。
努力すればするほど不幸になってゆく飛雄馬を見て、筆者はうんざりして暗い気持ちになってしまうのだった。 その巨人の星が今度リメイクされるらしい。しかも、主人公は飛雄馬ではなく、花形満だという。時代が変わったことをヒシヒシと感じるのは筆者の世代だけであろうか?

今の若者は巨人の星がどんな漫画であるかを全く知らないと思うので解説すると、貧乏な家に生まれた飛雄馬という可哀想な少年が、星一徹というスパルタ親父の珍妙なスパルタトレーニングに耐えながら甲子園に出場し、栄光の巨人軍に入団を果たし、どんどん不幸になっていくという、悲惨な物語である。
通称スポコン(スポーツ根性物語の略)と呼ばれた理不尽な漫画であった。昔の小学生はいつも夕方になるとこの漫画を見て夕ご飯の前に涙を流すのが日課であった(昭和40年代の話です)。
筆者は当時、飛雄馬と同世代だったが、30年後の今となっては親父の星一徹と同じ年齢に達している。同じ年代になって同じ立場で星一徹を見ると、新しい発見がたくさんあることに気付いたのである。
まず、星一徹の職業は現在で言うフリーターであり、日雇い土木作業員であった。そもそも、50近くになって定職に就かない(就けない?)こと自体がまともでないのに、子供を2人も作って、しかも母親不在の片親のままで育てている。
その丸出ダメ夫(古いなー)の親父が自分の果たせなかった夢を息子に勝手に託して(巨人軍のスター野球選手になること)、無茶苦茶なイジメとも呼べるスパ ルタ訓練を意味もなく繰り返すのである。その理不尽な仕打ちに飛雄馬はまったく反抗できず、ただひたすら耐えるのであった。
実は星一徹は、昔の典型的な日本の管理職の特徴を持っている人物なのである。それも日本一のダメマネージャ兼ダメ男と言うことができる。以下に星一徹のマネージャとしての問題点を考察してみよう。

第1に、彼は何も自分で実行しない。評論家である。
自分で大リーグ養成ギブスを着けるでもなく、夕暮れまでウサギ飛びをするでもなく、飛雄馬という忍耐強い部下の行動にいちいち難癖をつけているだけの評論家なのである。
第2に、彼のオペレーションは飛雄馬が造反しないことを前提としたオペレーションなのである。相手に何をやっても何を言っても許されるという甘えがその根拠にある。
第3に、自分の幸福しか追求しない、利己的な性格であるということである。自らは定職を持たないフリーターであるにもかかわらず、飛雄馬を働かせ、または その稼ぎをアテに平気で生きているのである。そのために飛雄馬は仕事をすればする程、不幸になったのである。真面目な部下の生き血を吸う吸血鬼と言っていいだろう。
第4に、星一徹は無類の怠け者で自堕落者であるということである。従って、自分は自らは何もしない。子供がいるにもかかわらず気ままなフリーターを続け て、子供の野球の練習をいちいち見る暇があったら、資格を取得するために勉強でもすべきなのに、そういう真摯さはかけらもない。彼は自分の人生、生き様を 変えようとしないし、「頑固一徹」と言っているが、本当は柔軟性がなく、現状を改革できない無能な人間なのである。社会にもついていけない。自分の大してうまくもいかなかった経験を後世大事にして年齢を嵩にきて、その価値観を押し付ける経験主義者で、傲慢な人間でもある。しかも、長幼の序を前提とした性格で、大して価値のない年長者であるという特権を常に横暴に振り回してちゃぶ台をひっくり返したりするのであった。しかも、飛雄馬という部下に対して責任が 取れないのに自分のやり方や人生観を押し付ける極悪人なのである(最後には裏切り行為までやります)。
もしかすると飛雄馬は勉強が得意で野球などやらずに塾に通って勉強していたら、東大に進学してエリート官僚や商社マンになったかもしれないのだ。
彼は子供(部下)の将来を収奪した、悪魔であった。

筆者は星一徹と同じ年齢になってしまったので、同級の立場から彼に言いたい。
“お前、いい年してフリーターなんかやってないで、自分で自分の人生を開けよ。努力しろよ。息子に自分の果たせなかった夢を託すなんて可愛そうなことはやめろ。お前の人生はお前自身で開拓しろよ。息子の人生はお前のものではない。お前の命はあと30年も残ってるんだぞ!子供の将来を奪ってどうする。自ら汗をかいて人生を切り拓けよ。甘ったれるな。”

果たしてこう説教して、一徹君の態度や生活が変わるかどうかは定かではない。
同世代になってみて、筆者は星一徹がいかにひどい男か理解できる。
これだけの“だめんず”が理想の父親として尊敬されていた時代があったのである。
筆者は儒教的な文化である長幼の序を守るルールや年功序列のルールは決して悪いことではないと考えている。
それがなぜ衰退していったかというと、この星一徹のように、年長でかつ親であるという理由だけで権力をふりかざしたり無茶をしでかす大人がたくさんいたと いうことや、組織変更をやりすぎて年功の“功”を管理する仕組みが欠落して“年序列”になってしまったために、長幼の序のルールや年功序列のルールが衰退 していったと考えている。
要するに、運用に問題があったのだ。問題の本質は“ルール”そのものではなく、その運用にあったのである。
こういう理不尽なマンガがその運用を捻じ曲げた可能性は極めて高い。