【第65回】民主主義の行方(前編)

今話題の名著、藤原正彦数学教授(実はこの人は「博士の愛した数式」の監修者でもあります)の「国家の品格」で、民主主義を支えるための絶対条件(本では 暗黙の条件)は、“成熟した判断ができる国民”の存在が不可欠であるが、そんな国民は絶対にいない、ありえねー、と言っている。
よって、民主主義には修正が必要で、その修正を行うのが真のエリートであると喝破している。彼の言う“真のエリート”とは、MITのMBAやフランス行政院や東大・京大を卒業した連中ではなく、以下のような人材であると述べている。

 


「第一に文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たないような教養をたっぷりと身に付けていること。そうした教養を背景として庶民とは比較に もならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。これが第一条件です。第二条件は、“いざ”となれば、国家、国民のために喜んで命を捨てる 気概があることです。」
以上、「国家の品格」より引用



筆者の敬愛する、ダンディ、ウィンストン・チャーチルは、「民主主義は最悪の政治であるが、今まで存在したいかなる政治制度よりマシである」とのたもうた。
学生時代、筆者はヒマだったので変な研究を独自に行ったりしていたのだが、その中の1つに、“民主主義は何故ギリシャ・ローマで滅びたのか?”というテーマがあった。
筆者は戦後のアメリカ主導の民主主義教育で育ったので、共産主義や軍国主義や国家主義は悪で、民主主義こそ理想の国の仕組みであると教わってきた(ハリウッド映画もそう言ってます)。
ユン・チアンの「マオ」(毛沢東の伝記です)なんかを読むと、やっぱり民主主義でよかったな、と思うわけであるが、それでは何故そんなに優れた民主主義の本家本元である、ギリシャやローマで民主主義が滅びてしまったのか?という疑問が沸いたので調べたのである。

 


ケース1 ギリシャの場合
ギリシャで民主制が施行されるBC7~6世紀の時代、多くの有力なポリスは僭主と呼ばれる非合法的に出現した独裁者によって統括されていた。
その後、ソロンの改革による最下層市民の地位保全が確立され、クレイステネスの改革によってアテナイ民主政の制度の基本が定まった。人類初の全市民平等による民主政治が始まったのである。
市民総会である民会を最高決定機関とし、日常の行政は500人からなる評議会が担当した。この時、僭主となるおそれのある人物を10年間国外追放するため に、陶片に名前を記入して投票する、いわゆる陶片追放(オストラキスモス)の制度も制定された。その後ペルシャ戦争を経て、アテナイ市民はその強力な海軍 の軍事力を支える重要な戦力となり、BC5世紀の半ばまでには市民であれば誰でもほとんどの要職に就任できるような徹底的な民主制へ移行していった。
その後、ギリシャのポリスはデロス同盟という連合を作って栄華を極めるが、ペロポネソス戦争によって疾病とスパルタに敗れ没落することになる。その背景に あったのが、衆愚政治と後に呼ばれる陶片追放の乱用で、扇動政治家(デマゴーグ)と呼ばれるアジテータに踊らされた一般市民がサラミス海戦を制し、スパル タを押さえ込んでアテナイの城壁を再建した名政治家のテミストクレスを追放したり、ペロポネソス戦争中に不要なシチリア遠征を企て、海軍力の全てを失うよ うな愚行を繰り返すことになって衰退してゆくことになるのである。
多数決の非条理さは、かのソクラテスも死を決して戦うが、その哲学では衆愚を変えることはできなかったのである。

ケース2 ローマの場合
ローマ市民は積極的に共和政を放棄したと言える。
以下に共和政の歴史を引用してみよう。

【共和政ローマの歴史】
・・・共和政の開始
紀元前509年、第7代王タルクィニウスを追放し共和制を敷いたローマだが、問題は山積みしていた。まず、王に代わった執政官が元老院の意向で決められる ようになったこと、またその被選挙権が40歳以上に限定されていたことから、若い市民を中心としてタルクィニウスを王位に復する王政復古の企みが起こっ た。これは失敗して、初代執政官ルキウス・ユニウス・ブルートゥスは、彼自身の息子を含む陰謀への参加者を処刑した。ラテン同盟諸都市やエトルリア諸都市 との同盟は、これらの都市とローマ王との同盟という形であったため、王の追放で当然に同盟は解消され、対立関係となった。
追放されたタルクィニウス王とその息子たちは王政復古の計画が失敗したことを知ると、同族のエトルリア諸都市から兵を借りローマを攻めた。市内に住んでい たエトルリア人はローマを去り、国力は低下した。一時期、先王タルクィニウスは市を包囲したが、ローマが敗戦を認めないため、攻め込んでも犠牲の多い割に 得るものが少ないと考え去っていった。

・・・ケルト人による占領
前4世紀アルプス山脈の北方からケルト人が南下してきた。ケルト人はローマ人からは「ガリア人」と呼ばれ、鉄の剣とガエスムという投槍を装備し、倒した敵 の首を斬るという習慣があった。ガリア人には重装歩兵によるファランクス戦法は通用せず、メディオラヌム(現在のミラノ)を根拠地として、前390年に ローマを襲撃して略奪を働いた。この事態はローマ将軍マルクス・フリウス・カミッルスによって打開された。

・・・イタリア半島統一
この後ローマは都市を再建した。弱体化によりローマの支配から離れた都市もまた元に戻った。戦も行った。また、「すべての道はローマに続く」とまで言われ たローマ街道も、紀元前312年に建設が始まった。これは軍事道路であるとともに、ローマに貢物を運ばせる通商道路でもあった。これにより各都市間の通商 が増大した。紀元前270年、ローマはイタリア半島を統一した。

・・・ポエニ戦争
紀元前264年、海洋国家カルタゴとの戦が勃発した。この戦は紀元前146年まで続く。これを、ポエニ戦争という。

  * 第一次ポエニ戦争 紀元前264年 – 紀元前241年 ローマ、
   シチリアを支配下に置く
  * 第二次ポエニ戦争 紀元前218年 – 紀元前201年 ローマ、
   地中海の覇者となる
  * 第三次ポエニ戦争 紀元前149年 – 紀元前146年 カルタゴ滅亡

・・・属州と共和政の変質
イタリア半島の制圧までのローマは、戦時に同盟国に兵力と物資の提供を求め、敗戦国に賠償を課したり、土地を奪って植民したりしたが、組織だった徴税制度 は設けなかった。しかし、第一次ポエニ戦争によってシチリアとサルディニアを得ると、属州を設けて納税義務を課し、総督を派遣した。属州から運ばれる穀物 は、ローマ市の急激な人口増加を支えた。制度のうえでは、属州統治においてもローマは都市の自治を尊重した。しかしその一方、派遣された総督は、ローマの 支配を確保する以外の義務や束縛を持たなかったため、収奪のみを仕事とした。
搾取とはまた別に、従属した諸国と都市の有力者は、ローマの政治家に多額の付け届けを欠かさぬことを重要な政策とした。結果として、少数の有力政治家の収入と財産が、国家財政に勝る重要性を持ち、ローマの公共事業は有力政治家の私費に依存することになった。
ローマ市民は、こうした巨富の流出にあずかる代わりに、共和政ローマの政治家に欠かせない政治支持を与える形で、有力者の庇護下に入った。恩顧・庇護の社会は、帝政期まで長くローマの特質になった。
対極的に没落の運命をたどったのは、ローマ軍の中核をなしていた自由農民であった。連年の出征によって農地から引き離され、また属州より安価な穀物が流入 したため次第に没落していく。この状況を打開するために、グラックス兄弟が、平民の支持を得て、土地分与の改革を実施しようとした。しかし紀元前133 年、兄が暗殺された。紀元前123年、弟は反逆罪の咎を受けローマを逃げ出すが逃げ切れず自決。改革は失敗した。元老院はグラックス弟の仲間をも処刑。こ れ以後、ローマ共和国は、暗殺と殺戮によって歴史が紡がれていく。

・・・内乱の一世紀
ポエニ戦争の後も対外戦争と対ローマ反乱は絶えることなく続き、ローマの軍事活動は止むことがなかった。こうした状況では、優れた指揮能力を持つ者を執政 官に選ぶ必要があった。その顕著な例が平民の兵士出身のガイウス・マリウスであった。彼は没落した市民兵の代わりに、志願兵制を採用し大幅な軍制改革を実 施した。この改革はローマの軍事的必要を満たしたが、同時に兵士が司令官の私兵となって、軍に対する統制が効かなくなる結果をもたらした。
はじめに軍の首領としてローマ政治に君臨したのは、マリウスとスッラであった。彼らの死後、一時的に共和政が平常に復帰したが、やがて次の世代の軍閥が登 場した。ポンペイウス、カエサル、クラッススは、第一回三頭政治を行なった。クラッススの死後、残る二人の間で内戦が起きた。地中海世界を二分する大戦争 は、紀元前48年にポンペイウスが死んだ後もしばらく余波を残した。
カエサルは、紀元前44年に終身独裁官となったが、王になる野心を疑われて、共和派に暗殺された。この後、カエサル派のオクタビアヌス、アントニウス、レ ピドゥスが、第二回三頭政治を行なった。カエサルの遺言状で相続人に指名されたオクタビアヌスは紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウスに勝利 し、紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」、「第一の市民(プリンケプス)」の称号を得て、共和政の形式を残しながら事実上の帝政をはじめた。

(以上、Wikipediaより引用)



アウグストゥスは決して権力を振りかざしたり、権謀術数を駆使して皇帝になったわけではない。当時の全ローマの民衆が彼を積極的に皇帝にまつりあげたのである。
BC32年にはイタリア全住民がオクタビアヌスに忠誠を誓い、彼の晩年の肩書きは落語の寿限無のように長かった。「最高指令官・カエサル・神の子・アウグストゥス・大神祇官・コンスル13回・最高指令官の歓呼20回・護民官職権行使37年目・国父」
どう見ても、ローマ人は喜んで帝政を作ったのである。

それでは、日本の場合はどうだろうか。

ケース3 日本の場合


次回に続く