【第64回】日本のダ・ヴィンチ・コード PartII -春はあけぼの

いよいよ待ちに待った「ダ・ヴィンチ・コード」が公開されることになった。主演がトム・ハンクスと聞いて、締まりのない顔で映画を台無しにするのではないかと心配していたが(壬生義士伝で大野次郎右衛門の役をやった三宅裕司が大事な場面でギャグをとばしそうな締まりのない口元をしていて致命傷でした。中井 貴一が可哀想でした)、歳相応に表情が締まってきてお間抜けな顔でなかったのには少し安心した(実はキャスティングを聞いたときは死ぬほど心配しまし た)。
なぜ、こういう「ダ・ヴィンチ・コード」のような小説が世界中でベストセラーになるかというと、新約聖書の中にある、イエス・キリストの言行録および伝記である四大福音書(成立順に言うと、マルコ伝、マタイ伝、ルカ伝、ヨハネ伝)の記述が偏っているというか、不正確というか、いい加減だからなのである。 ちっとも正確な伝記になっていなくて、各文書に矛盾や齟齬がたくさんあって整合性が取れないからである。要するに、何が真実を伝えているのかわからないので ある。

福音書とは、英語ではゴスペル(gospel)、ギリシャ語ではユーアンゲリオン(euaggelion)、アラビア語ではインジール、ラテン語ではevangeliumと言い、平たく言うとキリストの伝記である。
実はこれには沢山の外典があり、その真偽、成立過程、著者、出典、全てが不明のまま現代に伝わっている。
現在文献として認識されている福音書だけでも、ペドロ福音書、ナザレ福音書、エビオン人福音書、ヘブル人福音書、エジプト人福音書、ヤコブ原福音書、トマ スによるイエスの幼児物語、ニコデモ福音書、トマス福音書、マグダラのマリアによる福音書、等々、多数存在し、またその真偽真贋はハッキリしていない。

筆者が大学生の時代に授業で参照するのに新約聖書を読んだとき、小さい頃に日曜学校(因みに筆者はクリスチャンでもプロテスタントでもありません。宗教心はありますが、信仰心はありません)で聞いた話、例えば、キリストは厩で生まれたとか、マグダラのマリアは娼婦であったとか、キリストの父は大工であった 等という有名なエピソードが全く記述されていないので、とても不思議だと思ったのである。これらの話が2000年もの間、誰の手によってどうやって今日まで伝えられたのかが理解できなかったのだ。

ダ・ヴィンチ・コードで挑んだ謎解きは、これら歴史の中に埋もれた点(事実)を線(推論推理)で結ぶ作業なのである。これが歴史ミステリーとしてのダ・ヴィンチ・コードの面白さである(松本清張の“点と線”ですな)。
因みに、現在のヨルダン川西岸、死海の北西のクムランの洞窟で発見された死海文書が最古の実在した聖書として近年研究されている(バーバラ・シィーリング著、「イエスのミステリー」)。
死海文書とは、クムラン教団と呼ばれるユダヤ教の一派によって、BC2世紀~BC1世紀にかけて書かれた文書で、ヘブライ語聖書を含む約850巻の写本の集まりであり、1947年~1956年にかけてクムランの11箇所の洞窟で発見され、ヘブライ語、アラム語(イエスが使ったユダヤ人の言語)、ギリシャ語 で記述されている。
世界最古の原典に近い聖書、福音書がこの中に含まれている。それによると、イエスの妻や子供達、ローマでの生活、父とその家系、ユダヤ教他派からの迫害、 復活の真相、アグリッパやヘロデとのかかわり等が具体的に記述されている。ダ・ヴィンチ・コードの聖杯の意味も十字軍の動機もこれによって明らかになった のである。

平安一の才女というか、生意気女の清少納言もダ・ヴィンチ・コードを仕込んでいる。それは枕草子である。
枕草子がなぜ枕草子か、それはこの随筆の最初の章に仕掛けられたダ・ヴィンチ・コードが起点ではなかろうかと筆者は考えている。
枕草子の第一段は下記のような文章である。これはあまりにも有名なので中学校の国語の教科書には大抵載っている。


第一段 春は、あけぼの。

春はあけぼの
やうやう白くなりゆく
山ぎは少し明りて
紫だちたる雲のほそくたなびきたる

夏は夜
月のころはさらなり
闇もなほ
蛍の多く飛びちがひたる
また、ただ一つ二つなど
ほのかにうち光りて行くも、をかし
雨など降るも、をかし

秋は夕暮れ
夕日のさして
山の端いと近うなりたるに
烏の寝どころへ行くとて
三つ四つ、二つ三つなど
飛び急ぐさへあはれなり
まいて、雁などのつらねたるが、
いと小さく見ゆるは、いとをかし
日入り果てて、風の音、虫の音など
はた言ふべきにあらず

冬はつとめて
雪の降りたるは言ふべきにもあらず
霜のいと白きも、またさらでも
いと寒きに、火など急ぎおこして
炭持て渡るも、いとつきづきし
昼になりて
ぬるくゆるびもていけば
火桶の火も白き灰がちになりて、わろし

(以上、「春はあけぼの」第一段より引用)

筆者はシステムエンジニアなので、この文章をただ“鑑賞”したりはしない。この文章は明らかに変である。おかしい(“いとをかし”の“をかし”ではありません)。
清少納言は主語や主体(聞き手・話し手)や対象を省略して文章を書くので、読者はそれを補完しながら解釈しなくてはならない。それがこの文章の難解さにつながっていて、受験の問題として扱われることが多いのである。

因みに、これを筆者と清少納言の飲み屋での会話に翻訳してみよう。

納言ちゃん: 「あたし、春は明け方がいいわ。紫色の雲が細くたなびくところが素敵」
筆者: 「ふんふん」
納言ちゃん: 「夏はなんてったって夜だわね。月が出てればラッキーだけど、真っ暗もいいわ。蛍が飛び交ってロマンチックだわ。雨が降ってもいいわね」
筆者: 「何で?おいらは夏はジリジリ暑い昼下がりに蝉の声を聞きながら西瓜だな。第一、暗いと何にも見えないよ。夏の雨はしこたま降るから嫌だな」
納言ちゃん: 「秋は夕暮れがいいわ。夕日がさして山の端が近くなって、カラスがカァカァ寝ぐらに帰るのもいいし、雁の列が小さくなってゆくのもいいわね。日がとっぷりと暮れて真っ暗になって、風の音、虫の音だけになるのが一番いいわね」
筆者: 「おいらは紅葉がいいな。散歩すると気持ちがいいし。夕暮れはすこし賛成だけど真っ暗じゃ困る。」
納言ちゃん: 「冬は早朝がいいわね。雪が降ってれば最高だけど、霜の降る寒い日もいいわね。もっといいのはとっても寒い日に火を急いで熾して、廊下を渡るのもいいわよね。昼になってだんだん寒さがゆるんで明るくなって火桶の炭火の白い灰が見えるのは、みっともなくて興醒めだわね。」
筆者: 「早朝は寒すぎだし、眠いよ。だいたい、まだ暗いじゃない。冬の朝、まだ日が昇る前に起きるのは憂鬱だよ。夜とおんなじだもん。布団の中にいればいいけど起きるには寒すぎだよ。ただ炭火が暗闇で赤々と灯るのは風流かもね。」

この文章のダ・ヴィンチ・コードは“温度”である。その次のパラメータは“光”である。
人間にとって快適な温度、真っ暗な光の加減。
この共通の条件を四季に渡って論評したのである。
清少納言の才気はここで見事に発揮されている。
もっとも、何を行うのに、春はあけぼのがいいのかは皆さん各自考えてください(どうしても分からない人にはメールをもらえれば説明します)。

追記:最近、ユダの福音書の発見に関するニュースが話題となっている。米国の科学教育団体、ナショナル・ジオグラフィック協会は今月6日、エジプトで70 年代に発見され、古美術商の手にあったパピルス紙の束が、専門家らによる修復鑑定作業の結果、初期キリスト教の幻の外典「ユダの福音書」の約1700年前の写本であることが確認された、と発表した。聖書ではイエス処刑への道を開いた「裏切り者」として描かれてきた「イスカリオテのユダ」が、実は、イエス本人の命令に従い「救済」を完成させるために引き渡した「善行の人」だったと主張する内容で、鑑定分析に携わった宗教学者らは、その主張が史実かどうかは議 論が分かれるとしながらも、「初期キリスト教の多様性を示す非常に重要な発見だ」と話しているそうだ。