【第59回】ヒトラー最後の12日間余話 -2つの国の戦後処理(前編)

先日やっと懸念であった、トラウドゥル・ユンゲ原作、オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督の「ヒトラー最後の12日間」を観た。この映画は実話を基にして製作された映画で、2002年まで存命していたヒトラーの個人秘書、トラウドゥル・ユンゲの回想録を忠実に映画化したものである(この中のヒトラーの自決シーンはユンゲが実際に現場を見ていないので映像化されていませんでした。これを独映画の大御所、ウィム・ベンダースは突っ込み不足と批判していますが、 筆者は原作のままで良いと考えます)。
ヒトラー役のブルーノ・ガンツが、ガンジーを演じたベン・キングスレーの如く、真物と瓜二つ(筆者は映像でしか実物のヒトラーを見たことがありませんが)の迫真の演技で、ナチスドイツ第三帝国の崩壊を好演(怪演?)していた。

ヒトラーといえば、1923年のナチによる軍事クーデターであるミュンヘン一揆の後に投獄され、その間に執筆された「我が闘争:Mein Kampf」が有名である。この本は実は本国ドイツでは出版されていない。ヒトラー政権下で1,000万部出版されたこの大ベストセラーはドイツのバイエルン州が英語版およびオランダ語版以外の全ての著作権を管理し、ドイツでは出版が禁止されていて一般人は見ることができないようになっている(日本では大丈夫です)。
ところが、その中の猛烈な反ユダヤ主義思想が反イスラエル闘争の教科書として、最近またパレスチナのアラビア人やトルコなどで広く読まれていたりもする本である。歴史は皮肉なものである。最近のイランのアフマディネジャド大統領の「ホロコーストはなかった」という発言も、その根底にあるのはアラブ人のナチズム支持と筆者は考えている。
ヒトラーといえば、チャップリンが揶揄した独裁者のイメージが定着しているが、ヒトラーがドイツ国内で行った国家社会主義、ナショナル・ソーシャリズム(即ちナチズムですな)が、ドイツの社会をどういうふうに発展させたかはあまり人口に膾炙されていない。

筆者は1999年に10日間ドイツに旅をしたことがある。その旅は当時日本ソムリエ協会の名誉会長だった(故)古賀守先生の最後のワインツアーに随行したものである。
その古賀先生は戦前(1936年:昭和11年)からナチスドイツが崩壊するまで(1945年)ドイツに留学生として滞在しており、そのときの体験をもとに「1945年ベルリン最後の日」という当時のドイツ留学時の回顧録を上辞していた。

そこにヒトラーの国内政策についての記述がこう書いてあるので引用してみよう。

 


KDF運動
それからKDF運動というのがありました。これはクラフト・ドゥルヒ・フロイデといいまして、ヒトラーが、労働の為のエネルギーは喜びからしか生まれないという考えから、ヒトラーがこの運動を進めたのです。力は喜びから産み出されるという考え方です。
喜びを沢山与えられると、ドイツ人という民族は非常に勤勉に働く民族ですから、ヒトラーは自信をもって、このKDF運動に力を注いだのです。
(中略)
政府は全国から推薦された中から、更に選んで第一のご褒美として、そのKDFの豪華客船にのせて世界一周の旅をさせたのです。その次の者には大西洋一周、第三の者には地中海一周の旅をさせたのです。
このように豪華客船で当時は夢のような世界一周や、それから、大西洋を廻ってアフリカや南米を廻る旅というのは大変楽しいものでしたので、その為に日頃一生懸命働いて褒美を貰おうとしたのです。
とにかくそういう事をやって、ヒトラーは大変素晴らしい内政を布いたので、ドイツ人は喜々として働いたのです。だから、ドイツ人は最後の最後まで、滅亡の日までヒトラーについていったのは、決して独裁政治が恐かったのではなくて、心底、ヒトラーを信頼してついていったのだと思います。恐らく八割位の人達はそうだったという気がしました。
私は、ドイツ人がどうして最後の最後までヒトラーに、死の世界までついていくのかと思いましたが、やはりヒトラーの偉大さがそのあたりにあったのだと思いました。
そういう事で、恐らくヒトラーの内政というのは世界の歴史上でも、且てみなかったと、私はこの目で見ていますのではっきりと断言できます。
こういった歴史の事実も、アメリカの逆宣伝で、このような素晴らしい面はすべて抹殺されてしまたのです。ユダヤ人はアメリカでは強い影響力を持っていますから、そういう事実を全部抹殺して、印刷物もすべて抹殺してしまってこういった政治が世の中にあったという事を人々の耳目から奪い去ってしまったのです。
私は二十代から三十代に至る人生で一番感覚の鋭い時代の十年間ドイツにいて、この目で見、聞いた事を、お話ししているのであって、決して作り話をしているわけではないのです。

以上、「1945年ベルリン最後の日」より引用



このヒトラーの行った政策を解説してみると、まず行ったのが次の3つの経済解放である。

1つめが、国民医療の完全無料化
これは日本の健康保険よりも進んでいて、入院時のベッドの差額とか入院費、食費の一部負担も不要の完璧な医療保証を実施した。このため、ドイツ国民であれば等しく医療費は無料となった。

次に行ったのが、青少年の教育は国の責任であるという考えから、教育費は大学に至るまで無料にしたのである。この時代のドイツの子供は親の財力にかかわらず皆一律に大学まで教育を受けることができたのである。

最後に行ったのが、老後の保障である。
老人になって何の蓄えがなくても一切お金がかからない制度を創設したのである。
「1945年ベルリン最後の日」にこういう記述があるのでまた引用してみよう。

 


どの市町村にでも郊外の林の中とか、池のほとりとかに、その地域の人口に応じた老人ホーム、養老院があって、ピシっとしたホテルのような建物が建てられていました。日本で養老院というと、なんとなくうばすて山のように虐められるといったイメージがあったのですが、ドイツではホテル・オークラのような建物 で、そこには医療施設からお医者さん、看護婦、レストラン、図書館、トランプなどができる遊技施設室まで備えられていて、老人はベッドと机が完備された部屋を一人づつ与えられる権利が死ぬまで保証されていたのです。
ただ人によっては、そういう処に入るのは嫌で、子供や孫と死ぬまで一緒にいたいという人は、それはその人の自由ですから、養老院に入るのは義務ではありませんでした。
義務ではありませんが、老人になって寝たきりになっても看護婦の看護を受ける権利は平等に与えられていたのです。

以上、「1945年ベルリン最後の日」より引用



その上、ヒトラーはフォルクスワーゲンという車を作ってドイツの各家庭に一台ずつ持たせたいという思いのもとに、999マルクで購入できるように売り出した。当時の普通の警官の月給が200マルク程度だったので、月給の約5倍、今のお金に換算すると100万円くらいの値段で供給したのである。
そして、現在でも有名なアウトバーンという高速道路を整備した。これは当時では片道2車線、左右4車線の高速道路で2万キロも作られていたのである。
ヒトラーはこれら一連の政策で深刻だったドイツ経済の復興に成功したのである。
古賀先生の記録によれば、当時の日本とドイツの文明の違いを“カルチャーショックではなく、シビリゼーションショック”であると語っている。
当時日本でエレベータは、白木屋のようなデパートか丸ビルくらいにしかなかった頃に、ドイツでは個人の住宅に普通の設備として装備してあったり、日本でようやくラジオ放送が始まって一部の大金持ちしかラジオを持っていなかった時代に、ドイツでは一般家庭にテレビが普及してテレビ放送が放映されていたのであ る。
我々は第一次世界大戦敗戦国というイメージをもっているので、当時のドイツ国民がヨーロッパに冠たる生活レベルを築いていたかということをよく認識していないと思う。
彼等は前述の3大改革のおかげで貯金する必要がなかったので、一般庶民は皆、ウィークエンド・コテージのような別荘を持って人生を謳歌していたのである。
イギリスやフランスよりも高い生活レベルを実現した豊かな文明国だったのである。

次回に続く。