【第56回】ビジネスにおける金の斧・銀の斧 -吾唯足知 金のオジサン・銀のオジサンの寓話

“金の斧・銀の斧”というイソップの寓話がある(以下引用)。

あるところに、正直な木こりがいました。
いつものように山の中で木を切っていると、思わず手が滑って、大切な斧を池の中へ落としてしまいました。
木こりは大慌てで、池の中をのぞき込みました。でも池はとても深いようで、拾うこともできません。
「弱ったなぁ。斧が無くては仕事ができない」
がっかりして、池を見つめていると、突然池の中から女神が現れ、「そんな情けない顔をして、いったいどうしたのですか?」とたずねました。
木こりがわけを話すと、女神はさっと池の中に消え、輝く金の斧を持って現れました。
「あなたが落としたのはこの斧ですか?」
「いいえ、そんな立派な斧ではありません」
すると 女神は、もう一度池の中に消えると、正直な木こりが落とした古びた斧を持って現れました。
「あなたが落としたのはこの斧ですか?」
「はい、それです。ありがとうございました」
木こりが大喜びで手を差し出すと、女神は優しく言いました。
「あなたは、本当に正直な人間ですね。この金の斧も銀の斧も全部あなたにあげましょう」
木こりは自分の斧のほかに、金と銀の斧ももらいました。
家に帰ると、さっそくこのことを仲間の木こりに話しました。
「そんなら、おれももらってこよう」
仲間の木こりは、たいへんな欲張りで、さっそく山へ出かけていき、池のそばへ来て、わざと斧を投げ込むと、その場に座り込んでおいおいと泣きました。
すると、池の中から女神が現れ、「どうして泣いているのですか?」とたずねました。
「大切な斧を池に落としてしまいました。斧が無くては仕事もできません」
欲張りの木こりは、また声を上げて泣きました。
「泣くのはおよしなさい。わたしが斧を見つけてあげましょう」
女神は川の中に消えると金の斧を持って現れました。
「あなたが落としたのはこの斧ですか?」
欲張りの木こりは、けろりとした顔で「それです。それです。それがわたしの落とした斧です」と叫びました。
その途端、女神の姿は池の中に消え、もう二度と姿を現しませんでした。
欲張りの木こりは、金の斧を手に入れられなかったばかりか、自分の大切な斧まで無くしてしまったのでした。


ビジネスの世界にも同じような話がある。

“金のオジサン・銀のオジサン”(筆者オリジナル版)

あるところに、正直なオジサンがいました。
いつものように会社で仕事をしていると、会社でリストラに遭って、大切な仕事を失ってしまいました。
オジサンは大慌てで就職誌をのぞき込みました。でも世の中は中高年に冷たく、なかなかいい仕事を拾うことができません。
「弱ったなぁ。仕事が無くては生活ができない」
がっかりして、就職面接にいくと、突然役員室から女性社長が現れ、「そんな情けない顔をして、いったいどうしたのですか?」とたずねました。
オジサンがわけを話すと、女性社長はさっと役員室に消え、部長の待遇を持って現れました。
「あなたが望んでいるのはのはこの条件ですか?」
「いいえ、そんな立派な条件ではありません」
すると、女性社長は再び役員室に消え、今度は年収1000万の条件を持って現れました。
「あなたが望んでいるのはのはこの条件ですか?」
「いいえ、そんな立派な条件ではありません」
女性社長は、もう一度役員室に消えると、正直なオジサンが望んでいる年収700万の条件を持って現れました。
「あなたが望んでいるのはのはこの条件ですか?」
「はい、それです。ありがとうございました」
オジサンが大喜びで手を差し出すと、女性社長は優しく言いました。
「あなたは、本当に正直な人間ですね。この部長の待遇も年収1000万の条件も全部あなたにあげましょう」
オジサンは自分の仕事のほかに、部長の待遇と年収1000万の条件ももらいました。
家に帰ると、さっそくこのことを仲間のオジサンに話しました。
「そんなら、おれももらってこよう」
仲間のオジサンは、たいへんな欲張りで、さっそくその会社へ出かけていき、役員室のそばへ来て、わざと履歴書を投げ込むと、その場に座り込んでおいおいと泣きました。
すると、役員室から女性社長が現れ、「どうして泣いているのですか?」とたずねました。
「大切な仕事をリストラで失ってしまいました。仕事が無くては生活できません」
欲張りのオジサンは、また声を上げて泣きました。
「泣くのはおよしなさい。わたしが仕事を見つけてあげましょう」
女性社長は役員室の中に消えると部長の待遇を持って現れました。
「あなたが望んでいるのはのはこの条件ですか?」
欲張りのオジサンは、けろりとした顔で「それです。それです。それがわたしの望んでいる仕事です」と叫びました。
その途端、女性社長の姿は役員室に消え、もう二度と姿を現しませんでした。
欲張りのオジサンは、部長の待遇を手に入れられなかったばかりか、自分の大切な仕事も得ることができなかったのでした。

本コラム第45回「Y氏の愛した数式」で、ダメ営業の業務プライオリティを、自分>会社>顧客、と書いたが、マネジメントに向かない人々も同様の特徴を持っている。
即ち、利己心ばかりで利他心がないのだ(常に自分のことしか考えていません)。自分のことばかり考えていて、自分の部下、取引先、顧客のことを考えられないのである。そういう人は例外なく人望がない。
これは非常に不思議なことで、これが実践できない人は何をどう教育しても実践できない。ノブレス・オブリージュがまっとうできないのである。これは社会性がないということと軌を一にする。

会社を経営していていつも感じるのは、なぜ、日本中の全ての組織でマネージャーや管理職が不足していて必要とされているのに人材がいないのかという問題である。人々が米国流になったのかもしれないが、皆、責任感と職業観(プロ意識)が希薄である。自分のことしか考えられない人が多すぎる。
それが即ち、人間とは弱い生き物だからと言い訳するのなら、なぜ皆、“自分は間違っても人の上に立てる人材ではないので、ヒラ社員としての待遇を希望します”と宣言できないのだろう。
給与や待遇は管理職で仕事はヒラという人材があまりにも多い。これが大企業であれば仕事が難しくないので周りも迷惑しないが、中小企業となると一人の管理 職に求められる水準が高くなるのでこれが顕著になるのである(実は大企業出身者は例外なく大企業の仕事の方が中小企業の仕事内容より高度で複雑であると思い込んでいますが、実際は全く逆であります)。
マネジメントはテクニックではなく、人格を問われる商売なのである。多少欠点があっても人格者なら人はついていく。自分のことしか考えていない人間には人はついていかない。人望は全くないのである。

マネジメントを科学的に実践した最初の人物は、恐らくGMのアルフレッド・スローンで、それを研究して学問にしたのは先日亡くなったP.F.ドラッカーである。
ただ、評論家コンサルのドラッカーがGMにおけるマネジメントの本質を、経営者の人格とは全く関係ないテクニックの問題として紹介したために、彼はGMの経営陣の猛反発を買ったのである。経営者のフィロソフィーや人格の写像として具体的に実行された結果だけを研究して、それを考えた志の高さや人格の高潔 さ、責任感、使命感というような重要な要素を見落とす愚劣さを指弾したのである。“経営はそんな大学のMBAなんかで技術として教えられるものではないよ”と言いたかったのかもしれない。

学校を出てから20数年、ビジネスマン年齢も終盤に入りつつある40代になると、大抵のサラリーマンはビジネス人生の先が見えてくる。自分がこの会社でどこまで出世して、生涯いくらお金をもらって・・・というようなビジネス人生のシナリオが見えてくるのである。
その段階になって“なりたい自分”と“なれる自分”に相当大きなギャップを生んでしまった人々が出現する(もしかすると大部分のサラリーマンがそうなのかもしれませんが)。その頃になると、学歴やコネや派閥や同期の出世競争はあまり出世の要素として重要ではなくなる。その人が持っている志(ビジョン)が重要なのである。
この頃までにアクが抜けきらないオジサンは、“なりたい自分”と“なれる自分”のギャップを無理に埋めるためにハッタリを使ったり、本音と建前を使い分けたり、あらぬ噂で人を陥れたり、実際の自分よりもよく見せるための工夫をいくつもこらしたりして、あがくのである。

こうして日本の会社では実力主義という制度は容認されない。“なりたい自分”と“なれる自分”のギャップが埋められないオジサンは必ずこうウソぶく。
「同じ人間で同じ会社にいて同じ時間しか生きていないんだからそんなに差がつくはずはない」
働く女性の敵が働かない女性であるのと同様に、働くオジサンの敵は働く能力に乏しいオジサンなのである。悪貨は良貨を駆遂するのである。
禅の言葉で、天竜寺の蹲(つくばい:手水鉢、ちょうずばちとも言う)にある、“吾唯足知(われただたるを知る)”を実践するならば、自分は1,000万の給料が欲しいけれど、部下を育てる器量もないし、部下から相談される人望もないし、自分一人でワーカーとしてしか働けないので700万でも有難いと思う、となぜ言えないのだろうか?
利己心にまみれて自分のことしか考えられない人は“銀のオジサン”なので、自分の器量に合った待遇で満足すべきである。
年齢は無意味である。だてに歳をとっているだけだからだ。そういう人は間違っても社会で活躍したいなどと考えてはいけないのである。そういう心情のままで人の上に立つと若い人が可哀想だからである。

今回のコラムはやけに愚痴っぽいが、世の中にはこうした矛盾だらけのどうにもならない生き方をしてしまった愚かなオジサンがあまりにも多すぎる。こうい うオジサンを“銀のオジサン”と呼ぶのである。これを思うと日本の社会は“金のオジサン”の育て方を間違えているのではないかと思うのだ。
普通に暮らすと、“なれる自分”と“なりたい自分”のギャップが埋められないのに要求だけは高い“銀のオジサン”がたくさん生産されてしまうからである。
その原因の一つが会社の暖簾と自分の実力を誤解して生きてしまったという間違いがある。

これは狼の皮を着た羊である。
世の中の人は、会社の暖簾に頭を下げているのであって、決してそこに所属している社員に頭を下げているわけではないのである。それを自分の実力と勘違いしてオジサンはサボってしまったのである。
また部下の人は、会社の肩書きに頭を下げているのであって、決してそこに収まっている社員に頭を下げているわけではないのである。
それを自分の実力と勘違いしてオジサンはまたまた、サボってしまったのである。
これも狼の皮を着た羊である。
イソップは何でも教えてくれるのにオジサンはその知恵を忘れてしまっているようだ。

もう一回幼稚園からやり直さなくてはならないかもしれない。やれやれ。^^;