【第29回】唯識とOSとユング -無意識は人間の行動のクラスライブラリである

筆者は仏教マニアである。
20代の頃から数多くの仏教書に親しんできた。それゆえ、宗教心は多少あるのかもしれないが、寺に行ったり、師匠に参じたりするような信仰心は希薄である(全くないとは言わないが)。
なぜこんなに長い間仏教書を読み続けているかというと、面白くてためになるからである。仏教を本当に知ろうとすると、こんなに高度で知的な分野があるだろうかと思う。
その点では宗教といえないくらい異質である。

その長年の成果を集大成すべく、ここで大珍妙理論を発表してみたい(これはあくまでも筆者の趣味的仮説なので実証責任は負いません。悪しからず。単なる漫談として読んで下さい)。

筆者は長年仏教を科学の一種と考えている。
なぜなら、仏教の経典で主張された様々な仮説が近代科学の発展によって証明され続けているからである。これは理論物理と実験物理の関係に似ている。
ノーベル賞をもらうための物理学の評価は2つのチームの共同成果によって判定される。1つは理論物理による仮説で、もう1チームは実験物理による検証作業である。
このセットによって業績は評価される。小柴教授のスーパーカミオカンデなどは、巨大な実験物理インフラなのである。
なぜ仏教が理論物理かといえば、DNAの技術も記憶のメカニズムも医学も心理学も全くなかった時代に、肉体の修行による経験から生まれた仮説によって2000年後の科学技術の発展を待たずに様々な理論が発表されているからである。

その大理論の1つが唯識という分野である(京セラの稲盛さんの「生き方」という本を紐解くと、唯識を土台にしている記述があってその見識に驚いたりしますが)。
唯識は仏教の教義の中でも非常に難解で高度な分野である。
これは仏教の心理学とも言うべき特殊な分野で、日本には法相宗という形で伝わっている。日本で法相宗を教えた寺は興福寺と法隆寺と薬師寺である。唯識は俗 に、“唯識3年倶舎8年”と言われるほど難解な思想で、孫悟空の師匠の玄奘三蔵もこの唯識を学びに天竺(インド)のナーランダ学院へ旅をしたのである。
唯識の解説として、中村元先生の「仏教のこころ」から引用してみよう。

【唯識派】
ヨーガ行派(瑜伽師 ゆがし)ともいいます。開祖は弥勒(マイトレーヤ、270頃~350頃)ですが、無着(アサンガ、300頃~380頃)、世親(バス バンドゥ、350頃~400頃)にいたって完成されました。彼らは、我われの存在の根底には阿頼耶識という精神的原理があり、万有はそれの顕現したものに ほかならぬと説きました。
弥勒の「瑜伽師地論」は、実践修行者が究極の悟りに向かって進む段階を述べています。また「大乗荘厳経論」や「中辺分別論」なども彼の著であるといわれています。
無着の「摂大乗論」は大乗仏教概論を目指していますが、特に一切の事象は根本的な精神原理である阿頼耶識に基づいて成立していると説きます。
世親の「唯識二十論」は、下界の諸事物が我われの精神作用を離れて別に実在するものではないと論証し、「唯識三十頌」は一切の事象が阿頼耶識に基づいて成立する所以を30の詩句をもって述べています。「唯識三十頌」は護法(530頃~561)という学者の独自の解釈(「成唯識論)」を通して中国や日本では重要な典籍となりました。 ―『中村元が説く仏教のこころ』 )
筆者も実際に修行したわけではないのであまり偉そうなことは言えないのだが、19世紀の天才フロイトの弟子にして臨床心理学を確立して人間の無意識という分野を研究したユングによって、無意識というアクセス不能の脳エリアが存在するということが科学的に解明されたのである。
ユングは、個人的無意識 集合的無意識 家族的無意識とか元型と呼んでいるが、それを唯識では末那識(マナ識)、阿頼耶識(アラヤ識)と分類している。
(遺伝する無意識、遺伝しない無意識、という分類もあります)。
唯識では心の種類を8種類に分類している。即ち、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識である。この最後の2つのレイヤーが「無意識の領域」なのである。
日常の脳波ではアクセスできない領域で、コンピュータでいうと、OSのカーネル(阿頼耶識)とサブカーネル(末那識)に相当する。

実は座禅による禅の修業というのは意識が覚醒した状態でα波を出し、このカーネルの領域にアクセスするという行為なのではないかと筆者は考えている。
禅の悟りを開くという行為は、意識が覚醒した状態でα波を出し、このカーネルの領域にアクセスして人類の原始の記憶を掴んで返ってくる行為なのである。
(十牛図における得牛、牧牛の状態ですかね。註:十牛図とは禅の悟りのプロセスを図解したものです)。
従って、禅の悟りは体験によってしか体得することはできないのである。不立文字(ふりゅうもんじと読む)という禅の原則はこのことを意味し、本や知識によって決して体得することはできない禅の本質を指すのである。
禅はすべて実践的な修行によってしか大成しない。このことを道元は「只管打座(しかんたざ)」と言った。

DNAには「親の因果が子に祟り」と表現される。一代だけ相伝するキャッシュメモリの因子(これを仏教では種子(しゅうじ)と言う)が存在するが(だから 自殺したい時に出来た子供は自殺願望があるし、悪行を重ねた親からは悪い子供ができるのです。これを因果といいます)、これも一大理論なのだが今回は解説 しない。

皆さんは子供を育てたことがあるだろうか?
人間はあらゆる哺乳類とは異なって、病人のように五体不完全な状態で生まれてきて、約1年間ハイハイができるまで寝たきりで過ごす。その頃の赤ちゃんはCPUだけが動いていて、I/Oが全くない状態である(即ちINPUTのみ可能な状態です)。
この時期に自分の生まれた環境を克明に観察して、人格の基を作るのである(19世紀に狼に育てられた狼少年が、人間に戻ることなく、かつ、狼と同じ寿命で死んだのは、この時期に狼のOS形成されたからである)。
赤ちゃんをよく観察された方はお分かりだと思うが、彼らはちゃんとした高度な知性、知覚、判断力をもって生まれてきている。それは目を見れば分かるはずである。決して無知ではない。この1年間の病人状態で形成されるのが阿頼耶識という無意識のカーネルであると筆者は考えている。
その後3歳までの記憶はもう1度シールドされる。筆者の体験でもあったが、3歳まで飛行機も乗ったし、自動車マニア電車マニアだった子供が4歳になった途端にその記憶を全く失ってしまって、経験も知識も烏有に帰してしまったことがあった。
考えてみれば、我われも3歳以前の記憶を辿れない。この1~3歳までに形成されたレイヤーを末那識という。これも無意識の一種である。人間はこの3歳までに形成された元型、阿頼耶識と末那識によって人生の全ての行動原理、人格を生んでいるのである。よく巷で「三児 (みつご) の魂百まで」といわれる所以である。
実はこの「無意識」が人間の行動のクラスライブラリでとなって様々なオブジェクト(事象)を生成するのである。人間の人格はこく無意識のクラスライブラリによって規定されるのである。
このメカニズムを仏教徒は2000年以上前に解明したのである。

弊社の若い社員もこれから結婚して子供を育てると思うが、この原理を知っているか否かでオペレーションは全く違ってくる。なぜならこの原理でいえば、子供が4歳になるまでは人格形成のために、暖かく幸福な家庭を維持しなければならないということになるからだ。
これは歯を食いしばってでも与えなくてはいけない親の義務である。
カーネルが完成するまでは責任を全うする必要があるのである。夫婦喧嘩はもとより、DVなどもってのほかであるし、口論すらいけない。
また、この頃の赤ん坊は犬と同じなので、父親が主人(マスター)であるという人間関係の序列も教えなくてはいけない。そうなると、親の人間関係は1つの原理によってのみ運営されるのである。それは、「強い父親と優しい母親」である。優しい父親と強い母親でもだめだし、優しい父親と優しい母親でも上手くいか ない。
現在のへなへなな若者ではこういう関係を形成するのは難しいと思う。
子供への絶対的な抑止力をこの時期に形成しなければならないのである。
その「強い父親と優しい母親」という理想的リレーションを築くためには、いい恋愛関係のもとに尊敬し合える信頼感の醸成が重要となる。
そうなると根本的な恋愛のあり方から見直さないといい子供はできないということになるのである。

人間のメカニズムは実に科学的に設計されているのである。

皆さん、以上のような理由で、ナンパして結婚していい加減な恋愛で子供を作ってはいけませんよ。
いいOSができませんから。余計なお世話かもしれませんが。


<引用文献>
中村元/著 保坂俊司/補説 (2004年)
『中村元が説く仏教のこころ』 麗沢大学出版会