【第28回】遊びをせんとや生まれけむ -オジサンのためのレジャー論

遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけむ
遊ぶ子どもの声きけば
わが身さへこそゆるがるれ
-「梁塵秘抄」

いく時代かありまして、茶色い戦争の面影を引きずっていた高度成長時代、サラリーマンにとって遊びや休暇は悪であった。
現在の団塊の世代が「戦争を知らない子供達」と年長者から揶揄されていた頃の話である(実は筆者の父親は戦中派だと言ってますが、子供時代に戦争があった だけで出征もしていないし、軍歌も知らないニセモノでありました。こういうエセ戦中派と戦後派の世代間闘争が学生運動に派生し、同年代同士でのみ団結力の 強い団塊の世代を生み出したと言えます)。

遊びも休暇もタブーということは、遊びのために休暇を取るということは最も批判された行為であった。
休暇はお盆やお正月に実家に帰省するためのもので、遊ぶために使用してはいけなかったのである。
その頃、外貨の持ち出しが緩和され、キングストン体制、スミソニアン体制、プラザ合意によって円高が進行し、トリスを飲まないと行けなかったハワイに一般の人々も行けるようになった。海外旅行の市民化である。
それにもかかわらず、サラリーマンにとって遊びのために会社を休むというのはタブーであった。
そこに付け入ったのがゴルフである。
今の若者は、ゴルフはレジャーですか、仕事ですかと聞かれたら、「仕事で行くこともあるけどやっぱりレジャーじゃないの」と答えると思う。
ところが、一昔前のサラリーマンにおけるゴルフはそうではなかった。ゴルフ=仕事なのである。ゴルフ≒仕事でもない。ひたすらゴルフ=仕事なのである。
それゆえ、仕事をする=ゴルフをする、と同義になっていたのである(筆者の知っている某大メーカの社長は事業部長時代に年間100回以上のラウンドしていました)。

ゴルフのために休暇をとるというのは合法的な行為だったのである。逆にゴルフをやらない=遊ばないということになってしまったくらいである。
筆者も昔はゴルフを楽しんでいたが、ここ2,3年は全くクラブを握っていない。
早朝から夜遅くまで(渋滞時は深夜まで)拘束されて休みが1日潰れるのがもったいないからである。これは死ぬほどつらい。

サラリーマン社会はゴルフを免罪符として休みを使ったが、一般社会のレジャーは大発展を遂げている。
かつて温泉旅行は慰安旅行と呼ばれた。戦後物資が不足し、食料も酒もない時代に温泉旅行は食べきれないくらいたくさんのご馳走が出て、飲みきれないほど酒を飲んで、つかりきれないくらいたくさんの温泉につかった。まさに湯水の如くに蕩尽したのである。
これがかつての贅沢であった(熱海の黄金時代はちょうどこの頃です)。

そのモデルが高度成長時代、オイルショック、円高を経て変化してきたのである。
人々は量の贅沢ではなく、質の贅沢を求めるようになった。
食べきれない程のご馳走はいらないから、食べきれる量のとても美味な2,3品を求めるようになった。
贅沢「に」楽しむから、贅沢「を」楽しむ、に嗜好が変化したのである。

量から質への転換は飽和する文明への予兆でもある。
レジャーの質も変化した。豊島園からディズニーランドへである。
物欲も変化した。たくさんの服より1つのブランド物である。
ブランドが人々の階級を代弁するトレードマークとなっていったのである。

最近、イタリアのオジサンをモデルにして自らオヤジを連発するある雑誌がバカ売れしているらしい。何でも1年に1着位しか売れないような100万もする高級コートがこの雑誌で紹介された途端に6着売れたり(日本には在庫がないそうです)、何十万もする時計がバカみたいに売れるようになるらしい。最近のオジサンはゴルフオヤジからモテルオヤジへと量から質への転換を図っているのだろうか。
もしそうであれば、筆者は以下のことをオジサンに提案したい。

1.一人前の社会人として自立すること
そのためには以下の項目を実践する必要がある。
自分で靴下をはけること
自分でネクタイをしめれること
自分で自分の食欲を満たせること(できれば厨房に入って腕をふるえること)
子供じゃないんだから奥さんから小遣いをもらうのをやめること
自分の着る服は自分で選ぶこと
自分で食べるものは自分で決めること
自分の生き方や進路を奥さんに決めてもらわないこと
若くいたいではなく、美しく歳を取ると方針を変えること
容姿管理を徹底すること(お腹はすぐには引っ込みませんが、清潔感が重要なので毎日お風呂にはきちんと入りましょう)
人の真似をして安心しないこと

2.人生を大肯定して楽しむこと
そのためには以下の項目を実践する必要がある。
家族が自分にベッタリしなくても悲しまないこと(子供や家人に精神的に依存しないこと)
一人でいても十分楽しめること(時間の使い方ですぞ)
教養を身につけること
自分の時間を自分のために使うこと
友人ができる(単なる知り合いではない)ような立派な人間になること
若者から尊敬されるような大人になること(脱オヤジであります)

サラリーマン生活も40半ばになると、大部分の人々が自分がどこまで出世して、生涯年収がいくらで、というような先が大体判ってくる。その後の40年をどう生きるかは今を切に生きるという中にしか可能性はない。もし、あなたが走り続けていればまだ人生のゴールは見えていないはずである。20歳でフリーターで先が見えない若者よりも全力で疾走しているオジサンの方がカッコいいのである。青春はそういう人の心の中に永遠にあります(森田健作議員にあるのではな いのです)。

自由律の俳人尾崎放哉の句にこういうのがある。
「追いかけて追いついた風の中」
こういう生き方を疾風怒涛といいます。