【第22回】不幸のカースト、幸福のカースト

皆さんはプーラン・デヴィ の「女盗賊プーラン」という本をご存知だろうか?
題名だけ見ると、「怪傑黒頭巾」みたいで冒険コミック小説と思ってしまうがさにあらず。
これはプーランというインドの下層カーストである、マッラの生まれの農村の一少女が虐待や暴行を乗り越えて盗賊ゲリラとして政府と戦い、民衆の英雄となって投降し、後に完全文盲ながらインドの下院議員となって活躍し、2001年に暗殺された一女性の数奇な半生を口述筆記した伝記文学である(実はプーラン・デヴィ は筆者と同じ歳なので日本に生まれていれば花の中3トリオやキャンディーズをリアルタイムにTVで観ていたわけです)。
この伝記は、現代インドのカーストの人々を生々と活写しているものですが、カーストという制度を考える上でとても参考になる本でもある。
プーランは上位カーストのクシャトリア(王侯、武士)に属する「タクール」への報復から、盗賊を組織した階級闘争活動家であった。

筆者はこの本を読んでいて、カースト制度の持つ光と影の二面性を考えることになった。もちろん、影の部分は不当な階級差別で市民平等なんかクソ喰らえという、不平等な社会である。
光の部分(光なんてあるのか?と思われるだろう)は何かというと、ズバリ!「社会の安定」である。
インドという国が今日まで何千年もの長い間、何億人もの人々を抱えながら、さしたる社会制度や社会インフラも整備しないで安定した社会を築けたかというと、カースト制による人々の生活の安定と社会の安定が保たれてきたからである。
今、インドでカーストを廃止すると、フランス革命の頃のフランスのような大内乱が起きるのは必定である。

現在の日本は、日本人として生まれれば等しく義務教育を受け、皆同じ給食を食べ、同じ教科書を使って、実力があればどんな職業にも就ける社会を実現している。
カースト制もないし、階級もない、と思っている人が多いと思うが、実際にはそうではない。

今から10数年前、筆者が結婚して、長男が生まれようとしている頃、今から自分の許で生まれると考えた時、人間は生まれながらにして不平等なんだという事実に気づいて愕然としたことがあった。
戦後の平等教育によって、天の上に人を作らず、天の下に人を作らず、と思っていたが、自分のところで生まれた子供は地方出の両親でアパート暮らしで貯金もなく、車も中古でしかも仕事場では不遇という、お世辞にも未来が明るい状態とは言えない状況で生まれたのである。この状況は彼とは何の関係もない。たまたま彼はそういう境遇の家に生まれついたのである。かつての自分もそうであったように、自ら選択できない生まれついた境遇という運命を背負ってこの世に生ま れてきたのである。これは明らかに不平等な社会である。
カースト制がなくとも、人間は平等な境遇で生まれついてはいないのだ。
親の持っている財力、社会的地位、教育教養、家柄が20歳未満の子供の人生に影響を与えないはずはないのである。
実は日本人もこの目に見えないカーストの中で暮らしているのである。

読者の皆さんの中に、現在の自分は自分の親の世代よりも豊かで教養があり、社会的にも重要な役割を担っていると感じている方々がどれだけいるだろうか?
親と同じか、または親よりも劣悪な人生状況にある人は、カーストの中かまたはそれ以下のカーストに突入したということになるのである。
これはむしろ単なるお金の問題ではなく、精神活動に由来するものである。

前回のコラム「SEにおけるバカの壁」において、バカを形成する精神的アレルギーについて書いたが、これはカーストを超えてやらなければならない、より高次元の精神活動を拒否して、カースト内の「楽」(これが重要なポイント)な精神生活に留まりたいという、生体反応なのである。カーストの中にいれば、「楽」な人生 が送れるのである。
「楽」で「安寧」で勇気やチャレンジを必要としない人生が保障されるのである。
もちろん、カーストを超えない限り、「なりたい自分」と「なれる自分」の差は開くばかりである。
同じ時間を使って精神的に得るものはまるで違う。
それはプラス思考とマイナス思考の結果のように、全く逆の結果が同じ時間、同じ能力によって生まれることになるのである。差はどんどん開くことになる。

我々は、ある年齢に達したならば、心の使い方、心のコントロール方法を学ばねばならない。
SEやマネージャーにとっては、特にこのことが重要である。
学問やマニュアルでは解決できないピープルウェアのスキルの本質がここにある。
勇気を出して目標にチャレンジしたり、怒りをかみ殺したり、善因の輪を動かしたりしなければならない。

皆さん、心のカーストを打破して、よいSE、よいマネージャーになって下さい。
勇気は人生のビタミン剤ですぞ。