【第14回】植木等とタモリの大罪

植木等とタモリの大罪 ~日本から立派な男がいなくなった背景~

これから、憂国裁判所を開廷する。
当憂国裁判所においては、未来犯罪及び未来国家反逆罪を予防すべく、社会に有害な言論思想を弾劾するのが目的である。
今回の裁判では、日本の成年男子を堕落せしめ、サムライらしい立派な男を消滅せしめた重大な思想犯、植木等とタモリを断罪するものである。

この両名によって、日本の人材は志が低くて精神の卑しい「サラリーマン」や「おやじ」に代表される、ヘナチョコおじさんとなってしまったのである。
その結果、明治維新を支えたサムライは、今や希少な天然記念物となってしまった。

 


罪状1 植木等の犯罪 ~サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ <日本一の無責任男>

第二次世界大戦が終わって、日本が高度成長に向かうにあって、日本は産業就労人口の構成を変化させた。1次産業(農業漁業)から2次産業(工業)、3次産業(サービス等)への転換である。
このことによって、多くの日本人は生業(なりわい)と職業観を失うこととなってしまった。それまでの日本人には、現在憲法第22条で保障されているような「職業選択の自由」はなかったのである。
「おとっつぁん、おいら医者になりたい」なんて父親に言うと「ばかやろう、大工の倅は大工になるに決まってるだろう。四の五の言わずに俺の仕事をついで早く一人前になりやがれ!」と叱られたものである。
これは一見不自由かといえば、それ程不自由ではない。
なぜなら、目的を持って「○○になりたい」と思う人は現在でも極めて希だからである。
最近、「やりたいことが分からない」「何をしたいか分からない」という若者 が多いが、こういうやりたいことが分からない症候群の人達は四の五の 言わず親の仕事をついでいればニートやフリーターにならずに立派に社会に参画して社会人になれたのである(そもそも、やりたいことがないという状態は、自分を幸せにするだけの能力がないということの裏返しで、即ち、何の才能もないということを意味する)。
よく子供に、「君のお父さんは何をしているの?」と聞くと「僕のお父さんは×××建設に勤めています」だとか「△△△商事に勤めています」という答えが返ってくるのだが、それは「所属」であって「職業」ではない。×××建設で設計をするのと、工事をするのと、経理をするのでは全く職業が異なるのであ る。企業人サラリーマン勤人とは面白いもので「職業観」が希薄なので平気で経理部から営業に移ったり、設計部から人事部に移ったりするのである。
つまり、「生業」がないということは、命をかけて、または人生をかけて仕事をするという意識がないということである(従って、職業による(労働による)人格形成もない)。このことはとても不幸なことである。自分の仕事に誇りを持たない人間など立派な大人社会人とはいえないからだ。本当は恥ずべきことなのであるが、ある時、植木等がこれらの無職の人々に免罪符を与えてしまったのだ。
曰く、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」曰く、日本一の無責任男。

この僧テッツェルの免罪符によって、職業が人生ではなく単なる金儲けと出世の手段になってしまったのである。
ついには、我々のような職人や技術者でさえもそういうプロ意識の欠如した給料泥棒に成り下がってしまったのである。
その結果、「サラ公」の父親には見るべき背中がなくなった。リストラされて所属先がなくなると、単なる汚いおじさんになってしまうのである。
これはとてつもなく不幸なことである。人生観の喪失でもある。


罪状2 タモリの大罪 ~ネアカとネクラ

およそ20年前、タモリは人間を「ネアカ」と「ネクラ」の2種類の人種に分類して、根が暗いネクラを価値のない人間として排撃するキャンペーンを新宿のアルタを起点に開始した。これは日本の若者を堕落させる決定打となったのである。その背景と影響を糾弾しよう。
タモリによって何が変わったかというと、若者が競うように本を読み、知性を磨いた70年代安保の時代から、今日の本を読まない無教養ペラペラの時代に変わってしまったのだ。
タモリは人間の種類を2種類に分類した。1つが根が明るい「ネアカ」、もう一方が根が暗い「ネクラ」である。これは相当乱暴な分類と言わなければならない。ネアカが善でネクラが悪と喧伝したのがいけなかった。
嘲笑されたネクラと分類された人々は、無理にネアカに転向しなくてはならなくなった(これは筆者の大学生時代の話しである)。これはひどい暴力であった。
ちなみに、筆者はゲーテの若きウェルテルの憂鬱を読んでいた時に「ウェルテルは憂鬱な気質であった」と書いたくだりを読んで思わず膝を叩いたのだ。いろんなタイプがあるんではないか!と。
ちなみに、釈尊は性格が沈思的、つまり暗い子供であったといわれているが、社会人としては偉大であった。暗くても立派な人はたくさんいるのである。
ネクラを茶化すことによって、吉本の芸人の媚びを身に付けたチャラチャラした男が大量生産された。
これは下手なMRP(資材所要量計算)をまわすより忌々しき事態であった。
普通の成年男子が、皆、明石家さんまや石田純一のようになってしまったからだ。これによって若者は知性を失っていった。必要なものはギャグや底抜けの明るさや大笑であって、教養や思索は暗くてダメな行為と規定されてしまったからである。もちろん、哲学や歴史の本なんか病気の本のように忌み嫌われたわけである。以降、妙にハイテンションのノリの良さばかり身に付けてディズニーランド状態の若者が量産されることになった (こんなことを書くと筆者はガンコ爺のようで非常に嫌なのだが)。

以上、2人の思想犯によって、日本からサムライが消え去ってしまったわけである。


先日、隣の国の大メーカーから技術者が弊社にやって来た。皆ギラギラするほど真面目で熱心であった。
そういえば、昔日本に生産現場があった頃、こういう技術者が日本にもたくさんいた事を思い出した。昔の日本人の面影を見たような気がしたのである。


判決!

主文によって、裁判長に二人の思想犯に重罪を科したいところであるが、二人とも売れんがための芸人であったために社会的責任を全うする能力がない。

よって、推定無罪を言い渡す。

これにて今回の憂国裁判所を閉廷する。
以上。



しかし皆さん、例えソフト屋さんでも、仕事の本ばかり読んでないで、たまには文学も哲学も社会科学も歴史も読んで下さい。必ず人生の肥しになります。
Javaのマニュアルばかり読んでいても、いいシステムはできないのです(筆者は大学生の時代に出会ったマックス・ウェーバー師匠をいまだに尊敬しています。時間のない方は小室直樹の傑作「論理の方法」をぜひ読んでください)。

最近は暗闇の中をコンパスを持たずに歩いている人が多いので、尚更そういう知恵が必要なのではないでしょうか?そう感じる昨今であります。

合掌。