【第12回】管理と管理職事始め

「管理」という言葉を発明したのは明治の知識人にして適塾の塾頭、慶応義塾の創始者、福沢諭吉であった。
わけのわからない外国語を胆(はら)に落ちる日本語に訳した福沢諭吉も、この訳を胆に落とすことは出来なかったようだ。それが今日の日本の社会に混乱を招いたといっても過言ではない。
そもそも今日 「管理」 とされている原義は2つある。
1つが『コントロール』、もう1つが『マネジメント』である。

コントロールとマネジメントは全く異なる概念であるにもかかわらず、この両者は「管理」という言葉のもとに1つに括られて語られ使用されてきたのである。これが悲劇の始まりであった。
これだけは、かの諭吉先生にもぬかりがあった。

生産管理システムなどの「管理」は『コントロール』の意味で、経営管理手法などの「管理」は『マネジメント』の意味である。

その「管理」という言葉を用いて、ビジネスシーンで実践する、憧れ?の地位が管理職である。課長、部長、事業部長と段階はあるが彼らの仕事は組織や部隊を「管理」することである。
そこで管理職とは何をする商売かという、価値判断が分かれるのである。

もし「管理」が『コントロール』の意味だとすれば、ワンアクションの単純な単位の作業を指示して、一挙手一投足まで自分の思い通りに動かすことが仕事となる(部下の素質は命令に絶対服従する体育会系がよい)。
管理職は下の知能と判断力を一切活用せず、運動能力だけを使うのである。
代表例はコンビニとかハンバーガーショップの店長である。

もし「管理」が『マネジメント』の意味だとすれば、管理職は仕事の目標と意義を十分に部下に伝達して、細かい局面の判断(タクティクス、戦術であるが)を委ねて『仕事』を任すのである。
もし、任せた『仕事』がうまく進捗していなければ、アドバイスやヘルプを出して正しい方向に導かねばならない。
ただし、部下もそのためにホーレンソー(報告・連絡・相談)を徹底しなければならない。『作業』と『仕事』は一見、同じアウトプットを出すが、前者を達成した部下には何も残らず、後者を達成した部下は人材として伸びる(成長する)のである。
また、『コントロール』する管理職は部下が1人つくと仕事が2倍になり、2人つくと仕事が3倍になり、3人つくと仕事が4倍に増えるが、『マネジメント』する管理職は部下が何十人何百人ついても仕事の絶対量は変わらない。

『コントロール』される肉体労働者は体育会系の『作業』をひたすらこなし頭を使わなくて良いのだが、『マネジメント』される頭脳労働者は『仕事』を与えられて、それをこなしながら成長するのである。
『仕事』とは、マックス・ウェーバーではないが人格を陶冶し人生を切り拓く課題宿題なのである。
これは禅の公案とよく似たプロセスである。
臨済宗では公案という課題を与えて、それをこなしながら悟りに導くための体系がある。俗に言う禅問答というやつである。これらは禅坊主が大悟にいたる修行プロセスを体系化した大老婆心集である(興味ある方は鈴木大拙の禅入門を読んでから無門関や碧眼録や白隠にアタックしてください)。

即ち、エンジニアは『仕事』の目標を通じて修行し、成長するのである。
それを導く導師が管理職である。
それゆえ、『作業』を出す管理職の要員は育たない。『仕事』を任せる管理職のチームはどんどん仕事をこなしてモチベーションも高く、力もつくのである。
ただし、『仕事』を与えるには勇気と忍耐力と責任感がなくてはならない。人格的資質が重要である。ゆえに、『マネジメント』をつかさどる者は徳育が必要である。
家族のためとか自分のためを第一番に優先する人は向かない。受容力や責任感や愛情が足りない人は向かない(大体、命にかかわらないサラリーマンの仕事の内容を、家族はいちいち心配していません。)

要は、上の器量が下に影響するということである。
問題は知識ではなく、知恵であり人格なのだ。

最後に筆者の心の師であるNEC野村支配人からいただいた言葉を紹介する。


相手のことを理解する
正しいか、正しくないかを見ない
相手の言いたいことを解説する
相手を理解しているということを言葉と態度で示す
強くなるということは、受容性を高めることだ
Informativeに接することが肝要


皆さん、この箴言を噛みしめていい管理職になって下さい(実は筆者も修行中です)。